私は、これほどに美しい人間は見たことがなかった。
不幸は人を美しく色付ける。
その少年は正にその類いの美しさを備えていた。
強く儚く美しく――そんな文句を体現していた。
「――あ、また会った。きみはよくここに来るのか?」
私は返事をする代わりに、肯定の意味を込めて彼の隣に座った。
目を細めた彼は私の頭を撫でたあと、その繊細な指先で顎をくすぐった。
日溜まりと相まってこれがなかなか心地いい。
この少年は、何か重い病気らしい。けれど今日は顔色のいいほうだ。
だからこうして外に散歩に出ているのだろう。
私は少し首を傾けて彼を見つめた。彼の顔が、何だか今日は霞んで見える。何故だろう。視界が悪い。
彼は私の背に手を移す。
撫でながら、彼はただぼんやりと周囲を眺めていた。私もそれに倣って視線を正面へ戻す。
目の前の芝生では、数人の子供が遊んでいた。
彼らも、何かしらの病気を各々抱えている。けれど、それを感じさせない笑顔だった。
――せいいちくん、と柔らかな女の声がした。
彼はさらりと私の頭を一度撫でし、立ち上がる。
「検査の時間だ。またね」
ニャアとひと鳴き、私は彼を見送った。
それからしばらく、彼の体調のよい日が続いた。
彼は散歩へ出ては、ただ私の隣で陽向ぼっこをしたり、草花を愛でたりしていた。
――ただ、私は彼を認識することができなくなりつつあった。
私の視界はすっかり靄に覆われている。眼が濁っている、と仲間に言われた。母譲りの、美しい眼であったのに。
身体も重くなってきている。手足が痺れて動けなくなることが日に何度かあった。
私達は本能で、自分の死期を悟る。
其れを悟ると、通常は周囲との関係を断ち切りめいめい好きな場所で、ひとりで、最期の時を迎える。
しかし私は、彼がよく来る場所に毎日向かった。
彼は、初めて私を撫でてくれた人だ。彼のもの以上に心地の良い指先を私は知らない。
何より、快方へ向かっていく彼を見届けたかった。
今日も私は身体を引きずり、いつもの場所へ向かう。
彼は私を見つけると、抱き上げて膝に乗せた。
――心地良い。
この心地良さを手放したくない。
彼のこの繊細な指先に、凪いだ海のような声に、柔らかな微笑みに、もっと触れていたい。
逝きたく、ない。
早すぎる。
「手術が決まったんだ」
頭上で声がした。彼のカーディガンがふわりと風に揺れる。
「最近、凄く調子がよくなったんだ。
何故かはわからないけど、病状が回復してね。
体力も問題ないし、近いうちに手術できるだろうって」
「手術をして、リハビリをして、また体力をつけて……。
そうすれば、俺はまたテニスができるんだ」
私を撫でる彼の手が、微かに震えている気がした。
彼を見上げると、目に涙を溜めているのが見て取れた。
――人間が泣くのは、哀しいときではないのだろうか。
「俺はやっと、病人じゃなくなるんだ―――」
瞬いた彼の目から、ひとしずく。
ぽたりと、私の背を滑り落ちた。
続いて、もうひとしずく、ふたしずく。
私は、そのしずくを受けながら、悟った。無論、自分の死期のことではない。
私に早すぎる死期が訪れたのは、
「――ありがとう。きみを撫でるのは心地良かった」
彼の、為だ。
私は眼を閉じて、ニャアと、ひと鳴き。
「また、来るよ」
彼は膝から私を降ろすと、くすぐるように私を撫で、ゆっくりと歩いて行った。
――最後のひと撫でを、私は感じることができなかったけれど。
(これで良い―――)
尻尾をゆらり、私は身体を丸くして微睡みの体勢に入った。
泥に沈むように、私の意識が落ちてゆく。
「ねえ母さん。退院したら、猫を飼いたいんだけど、いいかな。
中庭にいつも黒猫がいるんだ。撫でると凄く気持ちよくて、それに眼が綺麗なんだ―――」
私は、貴方の代わりとなって逝く。
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