佐伯虎次郎という男は、色男だ。
神様みたいなものが居るんだとしたら、彼は間違いなくその神様みたいなものの祝福を受けてこの世に産まれてきた。
彼にはおよそ欠点というものが見つからないように思える。
しかし、天は稀に二物を与えることはあっても、欠点を与え忘れることは決してなかった。
サエは女運が悪い。
本人は否定していたけれど、今回それが証明された。
サエには、一年ちょい付き合っている――違う、付き合っていた彼女がいた。
ふんわりした雰囲気の、可愛い子だった。
ところがどっこい、彼女には遠距離恋愛中の彼氏が居た。サエと付き合い出す前からだ。
つまり彼女は、最初から最後までサエを騙くらかしていたことになる。
大人しそうな顔をしてこれだ。おっかないものである。
恐らく、彼女は遠距離なのが寂しくてサエを求めたのだと思う。
もしその遠距離がこの先も続けば、そっちの彼氏とは疎遠になり自然消滅、
晴れてサエと彼女はまともな恋人同士になれたことだろう。
しかし現実は違った。
遠距離恋愛中の彼氏が急に千葉に引っ越してきたのだ。
戻ってきたというのが適切なのかもしれない。詳しくは知らないけれど。
彼女はきゃあきゃあと喜んでその彼氏と仲良くしている。
彼女にとってサエは、近くに彼氏がいない寂しさを紛らわせるための便利な男でしかなかったのだ。
現れた元遠距離の彼氏は、どう贔屓目に見ても何もかもがサエに劣る男だった。
さらに気の毒なことに、二人の再会の瞬間をサエは目撃している。
彼のプライドも何もあったものではなかった。
さてそろそろ私の出番である。
サエは妙なところで意地っ張りなので、恋愛での弱音や愚痴を誰かにぶつけることはなかった。――私を除いて。
私が一度サエと彼女の痴話喧嘩に偶然居合わせ、
よくわからないうちに仲裁なんてしてしまったことをきっかけに、彼は私にだけはその手の話をする。
サエと彼女の間に何かあるたび、私たちは海に来る。
私は手足の先で砂を弄びながらサエの話を聞く。サエはぽつりぽつりと話しながら自分の中を整理していく。
そうすると、翌日か翌々日には二人の仲は修復されているのだ。
けれど、サエも私もとっくに気がついている。
いくらサエが気持ちの整理をつけたところで、もうサエと彼女の仲が修復することなどないことを。
それでもサエは、小さく語る。彼女との小さな思い出を、少しずつ、少しずつ。
それは、彼女をちゃんと忘れるためだ。
海はすべてを受け入れてくれるけれど、相槌は打ってはくれない。
ただ潮騒が所々言葉を侵食するのみだ。だから私が代わりに相槌を打つ。
今日の海はいつもより騒がしい気がする。
ざざあ、ざざあ。
サエの声が波音にかき消されること数回。
私は、始終穏やかな表情のサエに疑問を投げかけた。
「あのさ、」
「うん?」
「腹が立ったり、しないの?サエの好きな子を悪く言うのもあれだけどさ、やっぱりひどいよ」
サエは“うん”と“うーん”の中間くらいの相槌を打ちながら苦笑いをした。
恋は盲目と言えど、彼女が非常識であった自覚はちゃんとあるようだ。
「…もちろん、落ち込みはしたよ。
けど、彼女が俺を好きだった気持ちはたぶん嘘じゃないし、俺も彼女が好きだった。
一緒に居た時間は本当に楽しかったし、…一瞬でも、彼のことを忘れて俺と居てくれたときもあったと思うんだ。
だんだん、それで良いんだって気がしてきた」
「……ふたまたはふたまただよ?」
「うーん、彼女は寂しがり屋だからなぁ」
仕方ないかも、と笑うこの色男を、残念なことに私は好いている。
今まで海でサエの話を聞きながら、ずっと彼女を羨ましく思っていた。
小さく可愛い、私にはないものをたくさん持っていた女の子。サエに愛されていた女の子。
羨ましかった。もちろん、妬ましくもあった。
でも、サエが幸せそうだったからよかったんだ。サエが幸せなら、彼女になれなくてもよかった。
私の恋は、幸せそうなサエを見ているだけでいつかは忘れられるものだった。
…そう自分に思い込ませていた。
けどサエの恋は終わってしまった。同時に私の恋も終わる。
失恋の痛手につけ込むのは簡単だ。でもきっと、サエは私を好きにはならない。恋はしない。
それがわからないほど、私は鈍くはない。けれど、恋を自在に終わらせられるほど強くはなれないし冷めてもいない。
「っ、」
「――えっ、ど、どうしてきみが泣くんだよ」
「…違うよ、ちょっとかっこいいからって自惚れないの。目に砂が入ってきた……」
「あ、あぁ……今日はちょっと風が強いから…大丈夫?」
「平気……」
「あんまりこすっちゃダメだよ」
ねえサエ気付いて。
此処に、誰よりもあなたを想う人間がいるの。
私はあなたを騙したりしない。
裏切ったりしない。
いくらでも愛を注ぐから。
だからお願い、
「―― ……」
ざざあ、ざざあ。
告白が、潮騒に飲み込まれる。
「ごめん聞こえなかった。なに?」
「……女運の悪いサエがいつまた愚痴りたくなってもいいように、私がずっと居てやるって言ったんだよ!ばぁか!」
「ばかって……目、本当に大丈夫?赤くなってる。洗いに行こうか」
「うっさい、うわぁん触んなー!」
「はいはい」
「…バネがカラオケ行こうってさ」
「それもいいね」
さあ、エゴと恋心は潮騒の中へ捨ててしまおう。
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