最初に会ったのは、美術室。次は中庭。
その次はテニスコートのフェンス越し。

同学年の、絵を描くのが好きな女だった。
校内のあちこちに現れて、両手の親指と人差し指で作った四角を、キャンバスを思い浮かべながら真剣な顔で覗き込んでいた。
いつも微かに画材の匂いを纏っていた。

初めて好きになったその女は、聾者だった。
「あかやはどんな声で話すんだろうね」と手話で語った。
でも当時の俺は手話なんてわからなかったから、寂しそうな笑顔に、どうしたらいいかわからなかった。

語った言葉はわからなくても、その表情の理由を日を追う毎に俺も痛感した。
こんなに好きなのに伝わらない。
好きだって囁いても。愛してるって叫んでも、お前には伝わらないんだ。


最初は、ノートに好きだって書き殴って抱きしめた。恐る恐る抱き返してきた細い腕が愛しかった。
「愛しい」が溢れてくるから、それから何度も筆談で好きだって伝えた。
手を握った。抱きしめた。色んなところにキスをした。その全部に応えてくれた。

それでも溢れる「愛しい」は止まらなかった。
いつもの筆談じゃなくて、勉強し始めたばかりの手話でもなくて。
俺の声で、好きだって伝えたかった。俺の声に、振り向いて欲しかった。
後ろ姿を見つけて声をかけても、お前は振り返らない。
それがやるせなくて、もどかしくて、何だかたまらなく不安になった。

俺の声に、応えて欲しかった。



* * *



俺の部活が終わってから美術室に行くと、はいつものようにひとり残って絵を描いていた。
が描くのはほとんど風景画だ。写真のように忠実に描き、でも本物以上に優しく暖かい、そんな絵。
赤く滲む夕陽を浴びながら筆を走らせるその姿に、何だか胸が締め付けられた。
当然のことかもしれないが、はいつも肩を叩くまで俺が来たことには気付かない。
、と声をかける。振り向かない。
わかってる。いつものことだ。仕方のないことだ。わかってる。…わかってる、のに。


 「
   ――振り向かない。


 「部活、終わった」
   ――気付かない。


 「帰ろうぜ」
   ――届かない。


 「っ………」


こんなことするんじゃなかった。

俺は息苦しいほどの不安を覚えて、テニスバッグを床に投げ出してに駆け寄った。
後ろから少し乱暴に抱きしめると、は驚いたのか息を呑みながらびくっと肩を震わせた。
やっぱり、俺が来たことには気が付いていなかったんだ。
――俺の存在、すら。


 「好きだ。、…好き、だ。
  ――こんなに、好きなのに……っ」


ぎゅうっと腕に力を込める。
こんなに好きで、こんなに愛しくて、こんなに溢れてくるのに。俺の声では伝えられない。
呼び掛けても、想いを伝えても、応えてはもらえない。

は絵筆とパレットを置くと俺の腕をとんとんと叩いた。顔を上げた俺の眼には少し涙が滲んでいた。情けねえ。
は笑いながら、俺の涙を拭う。いつも通りの、絵の具の匂い。
この匂いを嗅ぐと心が落ち着くようになったのは、いつからだろう。
はゆっくりと、白い手を動かした。
それは、覚えたての俺にもわかる、極々簡単な手話。

一瞬、何かわからなかった。俺の覚え間違いかと思った。だって、そんなはずない、のに。
でも、は確かに、俺の目を見て言った。


 ――『わたしも』――


 「なんで……」


ただ目を丸くする俺に、は筆談用のスケッチブックを取り出した。
俺はまだまだ、手話じゃ会話を成立させられない。


 『何となく、好きって言われた気がしたんだけど、合ってる?』


無言で頷く俺を見て、はまた笑った。
前に見せた寂しそうな笑顔じゃない。少し照れたような、はにかんだ笑顔。

は耳が聞こえない。
俺の声はわからない。
俺の声は伝わらない、はず、なのに。


 『わたしも好き』


――伝わった。応えて、くれた。

不安はどこかへ消えてしまった。
白い紙の上で踊る「好き」の二文字と、それを伝えるの綺麗な手。
俺の胸を満たすにはそれで充分だった。

明日も明後日もその次も、
きっと「愛しい」は溢れる。