目を覚ますと、彼女は其処に居た。俺の右手を両の手でそっと包み込んでいる。
彼女の後ろには、窓枠に切り取られた鉛色の空が広がっていて、雪が降りそうだな、と頭の片隅で思った。

キャビネットの上の花瓶には真新しいフリージアが飾られている。彼女が持ってきたんだろう。
その鮮やかな赤は、モノクロに慣れすぎた俺の眼には少しきつく映った。
重い雲を宿す空も、シーツも、床も壁も天井も、俺と彼女の肌でさえ、モノクロで構成されている。

そんな古びた映像のような世界の中で、フリージアと彼女のくちびるだけが、色味を帯びている。
鮮やかな赤と、ほんのりと色付く桃色だけが、色彩を放つ。
この病魔は視界さえも侵すのだろうか、と嘆息しながらもう一度目を閉じる。
次に目を開けたときは、傍らにある彼女のコートも鞄も、ちゃんと色味を帯びていた。
ブラウンのコートと、群青色のスクールバッグ。どうやらただ寝ぼけていただけらしい。


 「いつ来た?」
 「…今さっき。ほんの十分くらいまえ」
 「そう」


心なしか、彼女の声が震えている気がした。
右手を少し動かしただけで、彼女の弱々しい拘束はするりと解ける。
少し熱っぽい俺には、彼女の手はひどく冷たく感じた。
その冷たい手を一度ゆるく握ったあと、そっと、俯き気味の彼女の頬を撫でてみる。濡れて、いる。


 「…? 何か、あった?」


微かな涙の跡を指でなぞる。彼女はスカートの裾をくしゃりと握った。
っ、と、声にならない嗚咽が、桃色のくちびるの隙間から漏れた。


 「言ってくれなきゃわからないよ」


俺は身体を起こして彼女の顔を覗き込んだ。
それを拒むように彼女は顔を逸らす。手を握る。
じんわりと汗ばんだ俺の手に、その手の冷たさは心地よかった。彼女は俺の手を握り返してはくれない。


 「…せ、い、いちには、わかんないよ」
 「うん、わからない。だから、教えて」
 「私が勝手に、不安になってるだけ、だもの」
 「不安?やっぱり何かあったんだ」
 「ないよ。…何も、ないよ。うん、なんにも、ないの」


自分に言い聞かせるように、彼女はそう呟いた。ようやく俺の手を握り返してくれる。


 「精市は、ちゃんと此処に、いるものね」


一言一言噛み締めるように言った彼女に、俺は首を傾げた。
彼女の手は、俺の熱が伝わってだんだんと通常の温かさになりつつあった。


当たり前の事実が、実はとても貴重なものだと気がついたのは俺もつい最近のことだ。
彼女は俺の存在にそれを見出しているのかもしれない。
俺は空いた手で彼女の頭を宥めるようにして撫でた。


 「変なことを言うなあ。俺は大丈夫」
 「だって精市、きれい過ぎるんだよ」
 「きれい過ぎる?」
 「寝息は静かだし、仰向けで寝相もいいし、寝顔だってやたら整ってて、…良く出来過ぎてて、こわいよ。
  言っちゃ何だけど、生…きて、ない、みたいで……怖かった」


じわり、また彼女の眼が濡れる。最初に泣いていたのも、それかもしれない。
確かにいびきはかかないし寝相もいいタチだ。
一度寝付けば眠りも深いから、彼女が声をかけても俺は目を覚まさなかったんだろう。


 「……ごめん、私が不安がってる場合じゃないよね。私が精市のこと、励まさなくちゃいけないのに」
 「そんなこと気にしなくていいのに」
 「でも、私が暗い顔してたら、精市までそんな気分になっちゃうでしょ?
  だから精市のお母さんはいつも気丈に振る舞ってる」
 「あぁ、そっか。そうなんだ」
 「そうなんだって……」


呆れる彼女に、俺は肩をすくめた。
確かに周りの人間に暗い顔で気を遣われるのは息苦しいけど、
励ましてもらおうとか、支えてもらおうとか、そうはあまり思ってはいなかった。
いや、みんなの存在は間違いなく支えにはなっているけど、意識的にそうしてもらっているわけじゃない。
いつもと変わらないみんなの様子が、俺と以前までの日常とをつなぎ合わせるから、俺は絶対にあの場所に帰るんだという気分になる。
俺の居場所は、こんな狭苦しい病室やベッドなんかじゃない。
みんなとの輪の中、テニスコート、教室、自分の家、自分の部屋、彼女の隣。それが俺の居場所、居るべき場所、居たい場所。
だから。…そうだ、だから、


 「、」
 「ん?」
 「約束して欲しいことがあるんだ」


彼女は長めのまばたきをして涙をなんとか引っ込ませると、うん、と頷いて俺を見つめた。
俺は彼女の手を握る力を、ほんの少し強めた。

 
 「俺に気を遣ったりしないで。いつもみたいに明るく振る舞ってくれていい。
  でも、不安に思ったり哀しいことがあったら、それを無理に隠したりしないで欲しいんだ」
 「…でも、」
 「俺はね、。前までの日常に帰りたい…て、いうか、絶対帰る。
  みんなと普通に学校で勉強して、ばかやって、テニスして、きみと色んなところに行きたい」
 「…うん」
 「みんなのいつもと変わらない様子が、俺のそういう気持ちを強くさせるんだ。
  それに、あんまり気を遣われるのも、ね」


彼女は首を少し傾げながらも頷く。納得仕切れていないときによくする仕草だ。
俺はくすりと笑って、彼女の髪を撫でる。


 「俺が知ってるは、確かに明るくていつも笑ってる子だけど、すぐに泣いたり怒ったりする子だ」
 「う……うん、はい、そうです…」
 「ならそのままで良いんだよ。きみの愚痴を聞くのは俺の役目だし、それに…」


彼女の髪を撫でていた手を後ろ頭にやって頭を引き寄せる。
ぐっと近付いた彼女の目尻に口付けると、僅かに涙の味がした。


 「きみが泣いたり怒ったりしたときのこういうのだって、俺の役目だろ?」
 「っ………」
 「ふふ、真っ赤」

 
 「――ゆっきむらぶちょー!」
 「見舞いに来たぜーぃ!」
 「こ、こら赤也、丸井…!病院では静かにせんか…!」
 「わわっ……!」


突然、相変わらずの騒がしさをまといながら、いつもの面々が病室に入ってきた。
は慌てて俺と距離をとる。勢いが良すぎて、丸椅子ががたんと転がった。
先頭に居た蓮二が、ふっと笑う。


 「みんな、出直すぞ」
 「ああ、そうしてよ」
 「ちょっ、柳く、精市っ」
 「えーいま来たとこじゃないすか。外さみーし戻んの嫌っすよ」
 「下の自販機でココアでも飲め。精市、邪魔したな」
 「たっぷり時間を潰して来てよ」
 「ちょ、いいからっ、みんな出て行かなくていいからっ。私帰るねっっ」
 「あーあ、ほら、ゾロゾロ来るからが帰っちゃう」
 「ばか精市っ。…また明日、来るね」
 「うん、また明日」


コートとバッグを掴んで、彼女は病室を出て行った。
しばらくしたら、きっとメールが来るだろう。そうして愛すべき日常を綴っていく。