嫌なところに出くわしてしまった、と俺は身動きも出来ず思った。

屋上の、貯水タンクの日陰はいい。校内で一番高いところだし、眺めもいい。
加えて、誰かが屋上に来ても気付かれにくい。人間は頭上にはあまり注意がいかないらしい。
ひとりになりたいときには絶好の場所だ。

ただ、屋上に来た連中が上のタンクの陰で寝転がる俺に気が付かないことがほとんどなので、稀に妙な場面に出くわすこともある。
今日も、痴話喧嘩に遭遇してしまった。
ただいつもと違うのは、痴話喧嘩の女の方がだってところだ。

揉めているらしい。というよりは、男の方が一方的にキレている。
は面倒臭そうに相槌を打ったり、誠意の欠片もない取って付けたような謝罪を述べたりしている。


 「――だァから、そういうのが嫌なんだってば」
 「何だよそれ!?」
 「重い」
 「っ…んだよ、誘ったのはそっちだろ!」
 「誘ってない。そっちが勝手に勘違いしたんでしょ」


の気だるげな喋り方はいつものことだが、こういう場面では相手の神経を逆撫でするんだろう。男の顔が怒りで赤くなっていく。
とは友人だが、痴話喧嘩にまで口を出す権利はない。
とは思ったものの、男がの腕を掴みその頬に一発見舞ったもんだから、俺は慌てて二人のところへ飛び降りた。


 「おい待て!女子相手にそりゃねえだろ!」


突如現れた俺に男は目を丸くする。は油断した男の腕を振り払うと、そそくさと俺の後ろに身を隠した。
頬に手をあてながら、明らかに聞こえるように呟く。


 「女を殴るような奴は論外だね、論外。つーか圏外。有り得ない」
 「てめっ…」
 「やめろって!!」


好きな女の痴話喧嘩の仲裁というのはなかなかエネルギーを使うものだと妙に得心してしまった。






 「――ごめんねぇ、宍戸。ここまで巻き込むつもりはさすがになかったんだけど」


壁に寄りかかりながら、は肩をすくめた。
相手の男はへぶつけられない苛立ちをあろうことか俺にぶつけてきた。
何で名前も知らねえ奴に殴られなきゃなんねえんだ。


 「…お前、俺が上にいるってわかってたろ」


二人が屋上に来たとき、は一瞬上を見上げて少し笑った。俺が居ると確認したんだろう。
尋ねると、は悪びれる様子もなく頷いた。


 「あいつに呼び出されたとき、教室にあんた居なかったから。
  居るならここかな、って。ちゃんと止めてくれて、助かったよ」


ありがと、と呟きながら頬にあてていたハンカチを下ろす。
ハンカチは俺が持っていたミネラルウォーターで濡れている。
ハンカチから伝った水分で、白い床がじわりと灰色になった。


 「――ああぁぁっつーか有り得ないなんで殴ってくんのなんであたしが悪いんだよざっけんな自惚れてんじゃねえよこのタァァァコッ!!」


急に、屋上の柵をがんがんと蹴りだしたの叫びを、俺は目を点にして聞いていた。
口の悪い女だとは思っていたが予想以上だ。温室育ちの多いこの学校でこういう女子は珍しい。


 「で?何だよ、今度は何で別れたんだ?」


――はモテる。同じクラスの奴に聞いたことがあるが、「お高く止まってる感がイイ」、らしい。
美人だが気難しく人を寄せ付けない。そんな高嶺の花を所有しているのは自分なのだという感覚。
でもソレって愛じゃねーだろ、と言った岳人とそれに頷いた俺はオコサマの一言で片付けられた。
後で忍足に意見を求めたところ、男ってそういうしゃあない生き物やねん、だそうだ。

気難しく友人が居ない割に、は来る者拒まずで男が絶えたことがない。
来る者拒まずというのは、本人曰わく女の友人が居ない自分が学校という閉鎖的な社会の中を生きる術なのだという。
要は女がだめなら男。そういうことらしい。

普段話す感じでは、は気のいい奴だと思う。
何故女子とうまが合わないのか、と尋ねたこともあるが、女はあんたが思うよりも怖い生き物なんだよ、だそうだ。
男はしゃあない生き物で、女は怖い生き物なのか。成る程そりゃ男が女に結局は敵わないはずだ。

は、女同士のねちこい人間関係がどうも苦手らしい。
嫌いな奴が相手でさえ、さも仲の良い友人のように振る舞いそのあと集団で陰口を言い合う。
嫌いな相手には相応の態度しかとれない自分には、それが息苦しいのだと。

男はいい。単純で、楽しくて、遠慮なくネタに身体を張るから、混じっていると気分が楽だ。とは前に言っていた。

は恋人が絶えたことがない。決して二股や浮気はしない。
だが、が求めているのはあくまで楽しい友人だ。だからどの男とも長続きしていない。
別れる度にの愚痴を聞くのが俺の役目になりつつあった。

今回の喧嘩の原因を尋ねると、は柵を蹴る足を止めて俯いた。


 「…私、別にあいつに抱かれたいなんて思ってなかった。
  でもさ、向こうはそういう気があるから付き合おうって思ったんだよね」
 「そりゃ順番が逆だろ。そういう気があるから付き合う、じゃただやりたいだけじゃねえか」
 「そうだったのかもね。…期待させるな、って言われたんだ。
  こっちとしては勝手に期待してんじゃねえよって思うんだけど、やっぱ付き合うってそういうの込みなもの?」
 「あー悪ぃ。俺彼女とかいたことねえからその質問はちょっと」
 「あんたの恋人はテニスでしょ」
 「そうかもな」


こいつは半ば、恋人としての男というものにも失望しているのかもしれない。

に必要なのは、腹を割ってすべてを話せる友人だ。
なら俺は、この想いを閉じ込める。こいつの前では男であってはいけない。友人の立場を守り続けるべきだ。

こいつの本心を知っているのは俺だけだから。