あたしには好きな人が居ます。
隣のクラスの日吉若くん。
あたしがマネージャーをしている男子テニス部のレギュラーの日吉若くん。
去年同じクラスだった日吉若くん。

でも残念ながら、日吉くんには彼女が居ます。

あたしはその彼女とはあまり接点がないのでどんなこなのかは知りません。
でもあたしが持つ僅かな彼女への印象は、ただただ普通、というものでした。
特別可愛いというわけでもなく、美人というわけでもなく。
あたしと彼女の間に、決定的な違いは見つかりませんでした。

ならどうして、あたしではないのでしょう。

彼女はいつも、日吉くんの部活が終わるのを待っています。でもそれくらいあたしにも出来ます。
彼女はいつも、差し入れを持って大会に応援に来ています。でもそれくらいあたしにも出来ます。

あたしはマネージャーです。

試合が終わって、汗だくの日吉くんに一番に「お疲れさま」と言ってタオルを渡すのはあたしの役目です。
だからあたしは勘違いをしていたのかもしれません。彼に一番近しいのは自分なのだと。

それでもやっぱり、日吉くんの彼女はあたしではありませんでした。
あたしと彼女で一体何が違うというのでしょう。わかりません。

でもあたしは、毎日日吉くんにふわふわのタオルを渡してあげられます。
絶妙なバランスのスポーツドリンクを作ってあげられます。
汗まみれ砂まみれの男くっさいユニフォームも、太陽の匂いが薫るほど清潔にしてあげられます。

それなのに、日吉くんの彼女はあたしではありません。


二人が付き合ってからおよそ二ヶ月半が経ったある日、
日吉くんの左手の薬指に銀色の指輪がはめられていました。ペアリングなのでしょう。

……気が狂うかと思いました。


向日さんや忍足さんがからかっていましたがそんなことはどうでも良くて、
あたしは頭を何度も何度も殴られているかのような衝撃にただただ耐えていました。

そう、あたしは日吉くんの恋人ではないのです。

日吉くんの薬指には銀色の指輪が光ります。
あたしの薬指には何もありません。


日吉くんはまじめな人なので、部活の最中は指輪を外していました。
整理整頓されたロッカーに折り畳んだハンカチを置き、その上にことんと指輪を置くのです。
初めてそれを見たとき、まるで女の子のようだと思いました。そしてあたしはそれすらも愛おしいのです。


もやもやと胸の内に醜い嫉妬を抱えていたある日、そのもやもやがパチンと弾けました。
部活の最中、誰もいない部室に一先ずの役目を終えた洗濯物カゴを置きに戻ったときのことです。
あたしは日吉くんのロッカーの前で足を止めました。ロッカーに鍵はついていません。

ぱこん、ぱこん、とボールを打つ音や、先輩や同級生、後輩達の声が、まるで別世界からの音のようでした。
どくんどくんと心臓が騒がしくなりました。あたしはそっと、日吉くんのロッカーを開けました。

そこにはやっぱり、折り畳まれたハンカチの上で光る指輪がありました。
あたしはその指輪をつまみ上げ、自分のジャージのポケットに滑り込ませてしまいました。


勿論、これくらいで日吉くんとその彼女の関係が壊れるだなんて思っていません。
それでもあたしは耐えられませんでした。
毎日日吉くんに会う度にどきどきするのですが、左手の薬指を見ると、
その可愛らしいどきどきはどこかへいってしまって、代わりに自分でもびっくりするほどどろどろとした感情が溢れてくるのです。
あたしはやっぱり、どうしても、それが耐えられませんでした。




練習が終わって、みんなが部室に戻って来て。
ロッカーを開けた日吉くんの顔は真っ青でした。
ロッカーの中のものを焦りと混乱が混ざった荒々しい手付きで取り出し中を隈無く探しても、
当然指輪はそこにはありませんでした。

そして今はもうほとんどの部員が帰りましたが、日吉くんはうなだれながら座っています。
その両隣では、向日さんと宍戸さんが空回りしながら励ましたり慰めたりしていますが、あまり効果はみられません。
あたしは日吉くんの様子を見ていたくて、わざとゆっくり、いつもよりも丁寧に部誌を書いていました。


部誌を書きながら、ふと小学校一年生のときのことを思い出しました。
あたしは当時好きだった男の子の靴を隠したことがありました。
そして帰り際、その男の子が生徒玄関で困り果てているところに声をかけたのです。

どうしたの? …くつがないんだ。 えっ、たいへん!いっしょにさがしてあげるね!


靴の在りかを知っているあたしは、適当に他の場所を探したあと、
偶然を装って、あったよー!とその靴を笑顔で差し出したという記憶があります。
それ以来、三年生のときにその男の子が転校してしまうまで、あたし達はたいそう仲が良かったのです。
靴を差し出したときの、ありがとう!というあのこの笑顔にきゅんとしました。
あたしは何てひん曲がった六歳だったのでしょう。しかし今も大して変わらないのです。
何故ならこのあとあたしは日吉くんを慰めるからです。
変わらないどころか醜くなるばかりです。女の子はほんとうに恐い生き物です。


部誌を書くあたしの向かい側には、忍足さんが座っています。
忍足さんはただぼんやりと、落ち込む日吉くんと空回りする向日さんと宍戸さんを眺めていました。
勘の良い天才さんのことです。
忍足さんは日吉くんの指輪がなくなったのはあたしの仕業だと気が付いているのかもしれません。

やがて忍足さんは立ち上がり、帰るで。と言って向日さんの肩を叩きました。
そして、取って付けたように、日吉、元気出しぃや、と言って部室を出て行きました。
そのあとを追うように、向日さんと宍戸さんも部室を出て行きました。残されたのは、あたしと日吉くんだけです。

日吉くんは小さくため息をついたあと、のろのろと立ち上がりました。
そして、全部出したままだったロッカーの中身を、やはりのろのろと戻していきます。

指輪がないのはわかり切っているのに、折り畳んだハンカチやタオルの間、
制服やジャージの上着のポケットの中、置き勉のファイルの中。
それらを細かく見てロッカーに戻していく仕草に、胸がきゅぅっとしました。
甘く痺れました。でもこれは、そんなに可愛らしい感情ではないのです。


日吉くんがぱたんとロッカーを閉めるのと、あたしが書き終えた部誌を棚に戻すのはほぼ同時でした。
あたしは日吉くんの肩をぽんと叩いて、最低な台詞を吐くのです。


 「大丈夫だよ、日吉くん」


日吉くんは返事をしません。


 「指輪なくしちゃったくらいで、別れようなんて言われないよ」


それは彼が最も恐れている事態なのでしょう。僅かに渋い顔をしました。そして静かに口を開きました。


 「…ちゃんと中に置いてたんだ。なのに、……くそっ。何で」


そう、本来ならば有り得ないのです。
向日さんや芥川さんのようにごちゃごちゃしたロッカーならまだしも、
日吉くんのように整頓されたロッカーから物がなくなるなんて、有り得ないのです。
有り得ないのだから、誰かの仕業だと思うのは当然だと思うのですが、
そういう結論に至らない、若しくは至っても口に出さないうちの部員達は何てお人好しなのでしょう。

あたしはそう思いながら、ジャージのポケットの布越しにそっと指輪を撫でました。
もしあたしのジャージのポケットに穴が空いていて、ころりと指輪が溢れ落ちたなら、
あたしはこの部に居られない気分になるでしょう。そうして、この恋にもお別れをするでしょう。
しかし残念ながらあたしのジャージに穴なんて何処にも空いていないのです。
あたしはもう一度日吉くんに、大丈夫だよ、と言いました。


 「だって日吉くん、彼女が指輪をなくしたら、それが原因で別れようって思う?」


日吉くんは、思わねえ、と小さく言いながら首を横に振りました。


 「なら大丈夫だよ。ちゃんと謝れば彼女だって許してくれるよ」


あたしは本当に、最低な女です。最早何をどうしたいのかすらわからなくなってきていました。

日吉くんは、そうだな、と苦笑ともとれる微かな笑みを見せたあと、
お疲れ、とあたしの肩に軽く片手を置き、部室を出て行きました。残されたのはもうあたし一人です。


あたしは、半ば物置きになっている空きロッカーを開けて、
ハサミやらカッターやらセロハンテープやらがいっぱい入った箱からペンチを取り出しました。

指輪をペンチに挟んで、力一杯ペンチを握ります。ばちん。指輪を半回転させてもう一回。ばちん。

指輪は、ただの細い銀色の金属片になりました。
あたしはペンチを箱に仕舞い、ロッカーを閉め、何だか酷い吐き気がして、泣きたくなって、
金属片を包む右手をぎゅっと握りました。金属片の切口が掌に刺さって少し痛みました。


部室を出ると、夕陽でオレンジ色に染まった道の向こうに、日吉くんとその彼女が見えました。
指輪がなくなったことは許してもらえたのかまだ話していないのか、
どちらなのかはわかりませんが、二人は指を絡ませ合って歩いていました。

ただ、日吉くんの左手は、ポケットの中でした。


あたしは帰り道、近所で一番汚い下水に、元はひとつだったふたつの銀色の金属片を捨てました。