テニスコートは、わたしにとって神聖な場所だった。
憧れの人が、いつもそこにいた―――それが、姉の茉莉だった。
七つ年上の姉はわたしの憧れそのもので、綺麗で優しく、勉強もスポーツもできる自慢の姉だった。
中学に入ってから始めたテニスも、あっという間に力をつけて、姉はいつだって歓声に包まれていた。
姉の真似をしたくて、わたしもテニスを始めた。共通の話題を持てたことが嬉しかった。

父も母も、わたしも、姉を愛していた。姉もわたし達を愛してくれていた。
わたし達家族は、姉を中心に回っていた。姉さえいれば円満だった。

それなのに、あの日、すべてを壊された。


  「(――もっと、苦しめばいいのに)」


わたしが壊された分だけ、失えばいい。苦しめばいい。
あの日からの五年を思うと吐き気がする。
あの人はいい加減に気が付くべきだ。“わたしが誰であるか”を。


 「嘘……だって、苗字、が………」
 「姉が死んだのをきっかけに、両親は離婚しています。
  原田は母の旧姓で、五年前は藤村という苗字でした」


これですべてわかったはずだ。あの人は、くちびるを噛んで俯いている。
他の人は一様に、わからないといったような顔をしている。
その中で、柳先輩だけが渋い顔をしていた。彼の中でも、点が線で繋がったんだと思う。
沈黙を見かねてか、柳先輩が口を開いた。


 「五年前…の父親は自動車事故で亡くなっている。
  この事故に、当時三年の立海の女子生徒が巻き込まれ同じく亡くなっている……それが、お前の姉か」
 「はい」


――あの日は鉛色の雲が広がっていて、かなり強い雨が降っていた。
わたしは熱を出していて、絶えず窓を叩く雨の音を、朦朧とした意識の中で聞いていた。
高い熱で、母と姉が代わる代わる看病してくれていた。
風邪をひくことはあっても高熱を出したのは初めてで、家には解熱剤も氷枕もなかった。
丸一日経っても熱が下がらないのを見かねて、薬を買ってくると姉が言い出した。
ひどい天気だからと止められても、麻紀が辛そうだからと姉は出掛けて行った。

すぐに戻るからねと言ったのに、お姉ちゃんは戻って来なかった。

わたしは事故後も数日間熱が下がらず寝込んでいて、全快した頃にはもう葬儀を残すのみとなっていた。
わたしが顔を合わせた姉は、既に“きれいな”状態に整えられていて、死んでしまっているなんてとても信じられなかった。
そうして、葬儀はわけもわからないまま終わった。
たくさんの人が訪れた。たくさんの人が泣いていた。
わたしは混乱していて泣くことも忘れていたけれど、出棺のとき我に返ったように泣き崩れた。
おいていかないで、いなくならないで――声にならない声で、叫んだ。

たくさんのものを、失った。


 「―― そういや、いつだったか“ふくしゅう”とか言っとったな」


座った椅子を傾けて、仁王先輩が言った。
あのとき、声に出して言ったわけでもないのに。やっぱり、この人も嫌いだ。


 「復讐って…何よ……何なのよ…!」


が俯いたまま低い声を漏らした。
テニスの全国大会は終わった。
わたしの行動理由も概ね明らかになった。
――この人にはもう、我慢をする理由がない。


 「確かにパパが…っ、私の父親が加害者だったけど、それでもあれは事故だった…!
  父だってあの事故で亡くなった!開き直ったりするわけじゃないけど、こんなの間違ってる…!!」
 「――勘違いを、していると思います」
 「え……?」


私は決して、“姉が死んだこと”に対してに復讐したいと思っているわけじゃない。
確かにあれは事故で、被害者・加害者共に亡くなっている。
ふたつの不幸を天秤にかけて比べるなんて間違いだ。そんなことは、わかってる。


 「わたしが赦せないのはあなたの父親じゃない。あなた自身です」


わたしはあの日から、感情を吐露することがなくなった。
息を潜めるように淡々と、それでいてはみ出し者にならないよう上辺は取り繕って、
何もかも自分の中に押し留めるようにして生きてきた。

だけどいま、わたしのなかの何かが、決壊した。
押し留めてきたものが、どこにも吐き出せなかったものが―――溢れる。


 「姉が死んで、わたしの家族は壊れてしまった、誰も笑わなくなった…!」


父は豪雨の中姉を外出させた母を責め、
母は休日も仕事ばかりの父を責めた。あの日父が家に居れば、車で薬を買いに行けたのに、と。
葬儀から一ヶ月もしないうちに両親は離婚し、わたしは母に引き取られた。
それでも母の父への不満や、不幸に対する苛立ちが消えることはなく、その矛先はわたしに向けられた。

あんたがひ弱だから。
あんたが茉莉に甘えてばかりだから。
あんたが熱なんか出さなければ。
どうして茉莉なの。
どうしてあんたじゃないの。
どうしてあんたは茉莉みたいにできないの。


 『茉莉はあんたの所為で死んだのよ!!』


 「…あの事故は、わたし達家族に大きくて深い傷跡を残した。修復なんて不可能だった。
  母はわたしが姉と同じテニスを続けることを許さなかった。姉と一緒に買ったラケットをズタズタにして捨てられた。
  わたしはあの事故で、大切なものをいくつも失った。大好きな姉も、優しい両親も、テニスも!!」


幸い母は名家の生まれでかなり見栄を張る人で、私立でありそして姉も通った立海への進学は許してくれた。
今も昔も、必死で勉強した。そうすれば昔の母に戻ってくれるかもしれない。
姉を亡くした母の心を少しは埋められるかもしれない。そんな気持ちがあった。
それと同時に、母に許してもらいたかった。
姉の代わりでいい。“わたし”を見てくれなくていい。
姉が居た頃の、少し不器用で優しい母に戻って欲しかった。
テニスをすることは許してもらえない。なら、勉強でいちばんにならなくちゃ―――。


 「最初は、テニス部のマネージャーになるつもりなんてなかった。
  でも、新歓の部活紹介であなたを見て気が変わった。
  顔を見てすぐにわかった、茉莉お姉ちゃんを殺した奴の娘だって!」


事故のあと、加害者家族が弔問に訪れた。
母がその親子を家に上がらせるはずもなく、わたしはその様子を家の奥から見ていた。
母親の方はほとんどずっと頭を下げていた。その後ろで、娘が俯いていた。
そのとき心はとても空虚なものだったけれど、何故だかわたしはまばたきも忘れて娘の顔を目に焼き付けていた。

たぶん年は上だけど、あまり離れてはいない。顔色が悪い。
見つめていると、時折涙を拭うような仕草をしていた。
――まるで自分がいちばん不幸であるかのような顔。
そんな顔には多少の腹立たしさは覚えたものの、わたしは心のどこかでその娘と自分を重ねていた。

わたしは姉を喪い、彼女は父を喪った。
父親が死んだら、きっと家庭はたいへんそうだ。暮らしていけるのかしら。かわいそう。
わたしも彼女も、大事な家族を喪った。
傷を舐め合うなんて御免だけれど、わたしは自分がどんなに辛くても彼女を思うと少しはマシな気になれた。

事故とは言え、人ひとりを殺してしまった男の娘だもの。
人殺しの娘と彼女を罵る人も居るかもしれない。
きっと彼女の穏やかな日々も崩れ去ったに違いない。
たとえ、あんたなんか生まなければよかった、茉莉だけでよかった、茉莉の代わりにあんたが死ねば―――。
そんな風に母に言われても、彼女の不幸を思って自分の心を誤魔化した。
あの事故でこんな風になってしまったのは、わたしだけじゃない、と。

それなのに。


 『初めまして!男子テニス部マネージャー、三年のです。よろしくね』―――


 「どうして、って思った。どうしてこの人はこんなにのうのうと暮らしてるの、って!
  わたしは今もあの事故が残したものに苦しめられてる。失ったものは何一つ取り戻せてない…!
  それなのに、どうしてあなたは普通に暮らしてるのよ…ッ!!」


不幸を比べるのは間違い。それは確かなことだ。今だってそう思ってる。
でも、正しいとか間違いとか、そんな正論や理屈だけでは心の整理はできない。
それなりの哀しみを乗り越えて今のが在るのだろうこともわかってる。
それでも、気に入らないものは気に入らない。腹立たしいものは腹立たしい。憎いものは、憎い。


 「わたしが誰かも知らずに笑いかけてくるのが嫌で嫌でたまらなかった。
  ずっとあなたが嫌いだった。憎かった。もっと苦しめばいいって思ってた。
  …だから、あなたを陥れた」


大好きな姉を喪った。
わたしの所為で姉は死んだのだと母に繰り返し言われた。
姉が死んでから父は口をきくどころか目も合わせてくれなかった。
両親が離婚した。
母はわたしを毎日のようにぶった。
母が品の悪い恋人を家に連れ込むようになった。
その男には家政婦のように扱われた。
男もわたしを殴った。

どうしてあなたは笑っているの?


 「…でも、これでおしまいですね。マネージャーは辞めます。
  他の部員の方々には好きに説明してください」


わたしはすぐに踵を返した。止める声など有りはしない。
外に出て扉を閉め、走り出した。
眼を閉じてまぶたに浮かんだ茉莉お姉ちゃんの顔に、笑みはなかった。





* * *





家に帰ると、汚い男物の靴があった。今日もあいつが来てる。
部屋に荷物を置いてリビングに行くと、ダイニングテーブルでお母さんが化粧をしていた。
こちらをちらりと見ただけで、すぐに鏡に視線を戻す。


 「…部活?テニスは辞めなさいって言ったでしょ」
 「学校で少し勉強してただけ。いつもより帰り早いでしょ?…ご飯、すぐ作るね」
 「いらない。それより麻紀、これ何よ」


化粧を終えたお母さんが出したのは、私がお姉ちゃんに買って行った花のレシートだった。
――きゅっと、胃が閉まるような感覚がした。お母さんは、これがの花屋だとわかっているんだ。
迂闊だった。本に紛れていたとはいえ、部屋の机の上に置きっぱなしにしていた。


 「…あの、それは、」
 「よく行くの?」
 「ち、ちが…う」
 「――あんたここがどこだか知ってるの!?こんなところの花を茉莉に持って行ってどういうつもり!?」


お母さんの言う通りだ。
お姉ちゃんはどんな気持ちだったろう。無知で愚かな自分が悔しい。


 「そんなだからあんたは駄目なのよ…!茉莉にあんな花…っ!」
 「ご、ごめんなさ…っ」
 「テニスだってもう二度とするなって言ったでしょ!?マネージャーだって同じよ!どうして言うことがきけないの!!」
 「ごめんなさいっ、ごめんなさい―――っ!!」






――身体にずくずくとした痛みを感じながら部屋でぼうっとしていると、ノックもなしにドアが開いた。
煙草臭い。だらしないスウェット姿の男が入ってきた。下品な笑みが気に入らない。


 「今日も派手にやられてんな。奈津子がキャンキャン言ってやがる」
 「…勝手に入ってこないで、出てって」
 「お前ほんとバカだな。姉ちゃん…茉莉?殺した奴らが売ってる花持ってくとかケッサク」


言いながら、男はわたしの腕を掴んだ。
抵抗しても無駄なことで、引っ張られて立たされる。
わたしはこの男が、世界で一番、よりも、嫌いだ。
わたし達家族のあいだに、入ってこないで。


 「やめて」
 「あ?」
 「その汚い口で、茉莉お姉ちゃんの名前を呼ばないで」


一呼吸おいて、男はわたしに勢いよく蹴りを入れてきた。
壁に当たって倒れ込むわたしの髪を掴んで頬に一発。


 「俺にはお前みてぇなガキ邪魔なだけだし、死んだ奴にも興味ねえし?
  けど、奈津子に言われりゃ仕方ねぇ。…あの花屋、朝にはニュースに出るかもな」
 「…なに、するつもりなの」
 「お前はそこで喚いてろよ」


手近にあったCDラックをわたしに叩き付けると、男はにやにやとしたまま出て行った。
ドアを閉め、かちゃかちゃと音がする。


 「やめて、やめてよ!!あんたは関係ないでしょ!?」


ドアに飛び付いても開かない。先月、部屋のドアの外側に南京錠を付けられた。
まだ向こう側には人の気配がする。


 「首突っ込んでこないで!あんたなんか家族でもなんでもないんだから!!
  開けてよ!!―――開けて……ッ!!!」


やがて、気配が消えた。