「さん。おはようございます」
 「あ……お、おはよう………」


なんだか、変だ。
柳生が昨日、頭を下げてきた。何が彼をそうさせたのかはわからない。
わからないけれど、きっと、私にとっては好転なのだと思う。
ただ、戸惑いはあった。何でもない挨拶すら、私には随分と久しぶりに思えたから。
柳生の態度が変わった理由がわからないから、余計に戸惑った。

朝練のあとかけられた、お疲れ様ですの一言が、ひどくくすぐったかった。



――昼休みは、あまり好きじゃない。
教室は居心地が悪いので、どこか居場所を探さなくちゃならない。
けど屋上も、中庭も、いつも誰かがいる。最近は、裏門から自転車を走らせて河川敷まで行くことが多かった。
河川敷は気持ちがいい。学校に戻るのはひどく憂鬱だけれど、逃げたくないという気持ちの方が大きかった。

お弁当を食べたあと、寝転んで色々なことを考える。十五分ほどの、穏やかな時間。
瞼を下ろしていると、ふっと影が落ちたのがわかった。――柳生だ。


 「昼休みは、いつもここに?」


どんな態度や言葉を選んだらいいのかわからなくて、結局返事ができなかった。
柳生はそれを気にした風でもなく、私の隣に腰を下ろす。
しばらくはお互いに口を開かず、風に草が揺れる音だけがさわさわと流れた。


 「……どう、して」


私の声は、思ったより掠れていた。
言葉がうまく出ない。
くちびるがかさかさしている。
鼓動が速い。
緊張、しているのだと思う。部員とまともに話すのは、久しぶりだ。


 「どうして、急に、……前みたいに、」


柳生の態度が変わった理由が知りたかった。けど、うまく喋ることができない。
私はどちらかと言うと、ハキハキ喋るたちであったはずなのに。
そんな私の拙い言葉でも、柳生はちゃんと汲み取ってくれた。
少し強い風に揺れる前髪を直しながら、彼は静かに言う。


 「原田さんは……嘘を、ついているのでしょう」


いきなり核心をついた言葉に、私ははっと顔を上げた。
柳生はきれいな形の眉を寄せて、言葉を続ける。


 「昨日から、原田さんが戻ってきているでしょう?
 おととい、私と仁王君で彼女の家に行ってきたんです。一応は、お見舞い…のつもりで」


柳生はところどころ言葉を慎重に選びながら、一昨日のことを話してくれた。

二人が原田の家に行ったのは、柳生の言う通り一応はお見舞いという体だった。
学校には、風邪で休むと連絡されていたから。
でもそんなのは嘘で、私からのいじめに耐えかねて休んでいるのだろうとみんな思っていた。
いじめに耐えかねて云々は勘弁して欲しいけれど今は置いておいて、私も風邪だなんて嘘だと思っていたし、
その点に関してはみんな同じだったと思う。本人も、信じてもらえるとは思っていなかっただろう。
休んで、みんなから心配されて、しばらくしたら登校して、また心配されて……。

休んでいるあいだに私がどんな目に遭うかも、彼女には容易に想像できたはずだ。
事実、私は“お前の所為で麻紀が学校に来ない”と部員や顔も名前も知らない一年生に責められた。

心配されたい、私をさらに追い詰めたい。
そんな馬鹿げた理由で休んでいるのだと思っていたけれど、そうではなかったらしい。


 「―――嘘でしょう……何よ、それ………」


柳生の話は、私の予想を大きく裏切るものだった。
原田はやはり、風邪なんかで休んでいたわけじゃなかった。
けれど、私を追い詰めたくて休んでいたわけでもなかった。

 “学校に来たくても、来られなかった”

頭が、ぐわん、と鈍い音を立てている気がした。
原田が学校に来なかったのは、親が原因だった。
それが明らかに“駄目な親”で、この数日原田は家事をしていたらしい。恐らくは、親に言われて。


 「断れば、手を上げられたのでしょう。…いえ、反抗しなくても同じことなのかもしれません。
 このようなことが初めてという様子でもありませんでした」


あまりに馴染みのない事情ではあるけれど、これはきっと、虐待と言えるものだ。
柳生の話を聞いてピンときた。原田の身体のあちこちにある痣や火傷は、親にやられたものなんだろう。
“利用できるものは最大限に利用する”―――原田はそう言っていた。こういうことなのか。

柳生は、原田が虐待を受けているのを知り、傷の原因が私ではないと思い至った。
けれど原田は、傷は私にやられたのだと吹聴していた。そうして、彼は原田の嘘に気が付いたらしい。

柳生の態度がなぜ変わったのかはわかった。
でも、原田がどうしてこんなことをするのかはやっぱりわからない。
今の話を聞く限りでは、家で虐待をされているから学校では護られたい、それでいて、“傷つける側”になりたい…そう思える。
……ううん、違う。原田ははっきり言っていた。 ――”あたしはあなたが大嫌い”と。
学校では護られたい。家では傷つけられるだけの自分も、“誰か”を傷つける側になりたい。
そんな理由じゃない。原田は明らかに、私自身に対して何か怨み辛みを抱いているようだった。
…原田麻紀。その名前を、心の中で反芻してみる。それでも思い当たる節はなかった。
テニス部で一緒にならなければ、関わることなんてきっとなかった。


 「…どうして……」
 「原田さんが嘘をつく、理由ですか?」


私は無言で頷いた。
いくら考えても、何も答えは出てこない。
でも何か、大事なものを見落としているような気もする。
もしかしたら本当に、テニス部で一緒になる以前にどこかで―――……思い当たらない。


 「ですが、原田さんの動機が今はわからなくとも…まずは部員の誤解を解くべきかと思います。
  少し考えてみれば、不自然な点はいくつもある。
  痣はまだともかく、原田さんの火傷…さんが嫌煙家であることなど、ある程度親しければ皆知っていることでしょう?
  矛盾をひとつずつ指摘していけば、誤解を解くことは難しくはありません」


確かに、そうだ。冷静にひとつひとつ考えれば、原田の嘘はあまりに脆い。
私は煙草は嫌いだと常日頃から言っていたし、実際はただの一度も原田に暴力なんて振るっていない。
原田にマネージャーの仕事を押し付けているだなんて噂もあるけれど、マネージャーの仕事は原田ひとりでできるものじゃない。
今では部員が原田を庇って逆にほとんど私が仕事をしている。部員と接する機会の多い仕事を原田がしているというだけのこと。

それでも私の言葉は、みんなには届かない。
でも、他のひと…柳生の言葉なら。鵜呑みにはしなくても、すぐには信じてくれなくても―――


 「貴女はこれ以上、傷つく必要なんてないんです。
  できるだけ早く……今日にでも、皆にすべて説明して―――」
 「まっ…待って、だめ、今はだめ…っ!」


止める私に、柳生は眉を寄せた。
勿論私も、早く事態が収まればいいと思っていた。でも今はもう違う、時間が経ち過ぎた。

耐え抜いてみせると、決めた。こんな馬鹿げたいじめなんて、いつまでも続くはずがないと。
逃げ道はない。なら、私だけは誰にも手を上げずに、ただじっと耐えようと。
いつか、正しかったのは私なのだと証明するために。

出口の見えない暗闇に差し込んだ、小さなひかりをもう少しで掴める。
―――でも今はその時じゃない。


 「いま誤解を解こうとしたら、みんな全国大会で百パーセントの力が出せない…!」


全国優勝をサポートする。それが私の最大の役目だった。それができない私に、価値はない。
誤解を解いてみんなの精神面をかき乱して優勝を逃したのでは、いよいよ自分で自分が許せない。
柳生の言う通り、少し考えれば誤解を解くのは難しいことじゃない。
会話を録音したりすれば、原田の本性をみんなに示すことだって可能だった。
けれどそれをせずここまで耐えてきたのは、この為だ。


 「馬鹿だって自分でもわかってる。でも馬鹿でもいいの、優勝して欲しいの…!
  だって、そうじゃなかったら私…何の為に男テニに入ったのか……何の為に今まで耐えてきたのかわからない…っ」


私は、全国の舞台ではテニスができない。選手になれない。
それでも全国優勝を目指す輪の中に入れたことが嬉しかった。
私は、自分の夢を勝手にみんなに託していた。
その夢だけは譲れない。たとえ自分を犠牲にしてでも、護りたかった。


 「全国優勝は、私の夢でもあるの……っ!!」


柳生はすっかり呆れ返った様子で、項垂れてため息をついた。
当たり前だ。これが普通の反応だ。
私のテニスに対する、病的な執着。さぞかし引いていることだろう。


 「……結局、短慮なのは私ひとり、ですか」
 「え…あ、いや、浅はかなのは私の方で………ごめん」
 「いえ。――…本人にそう言われてしまっては敵いません」


苦笑して、柳生は立ち上がった。そろそろ昼休みが終わる。
私は自転車だから、予鈴が鳴ってから戻っても間に合うけれど、柳生は歩いて来たみたいだ。
教室に戻るのは授業が始まるギリギリが望ましい。私がそう思っているのを察して、柳生は先に学校へ戻って行った。

ひとりになって、もう一度寝転んで空を見上げる。
今日は晴天だけれど、風があってそれほど暑くはなく、気持ちがいい。


 「(私の夢―――……か…)」


勿論、嘘じゃない。けれど、それだけがほんとうじゃない。
最後に“正しかったのは誰なのか”を証明する為には、文句のつけようのない状況を作る必要がある。
柳生には言えなかったけれど、そんな打算もあった。
私もどんどん、場を読んでしたたかに行動するようになっている。その順応が、嫌だった。

でも、もうすぐ終わる。
正直言って、柳生の存在はかなり有難かった。学校で警戒せずに言葉を交わしたのはひどく久しぶりな気がする。
全国大会が終われば、すべてがわかる。すべてが終わる。
何もかもが元通りになるなんて思えない。それでも、ほんの少しでも、失ったものを取り戻したい。

鞄から手帳を取り出して、カレンダーを確認する。
もうずっと前から、印を付けていた日付。


全国大会の幕が上がる。