一筋縄ではいかない――彼を、仁王雅治という人間を表すには適した言葉だ。


 「――仁王君、ちょっとお話が」


練習後、着替えを終えて帰ろうとする彼を呼び止めると、
仁王君は予想通りといった顔をして、丸井君たちに先に帰るよう伝えた。
西日を全面に受けたテニスコートのフェンスに寄りかかり、彼はにやにやと口角を上げる。


 「何じゃ、話って」
 「…その顔、やめて頂けませんか」
 「残念ながら地顔じゃ」
 「っ、――貴方という人は…っ、何故そうやって平気でいられるんですか…!」


恐らく、原田さんは我々に嘘をついている。
最初の嘘が何であったのか、それは私にはわからないけれど、
我々の歯車が軋み、狂い始めたきっかけは間違いなく彼女だ。

原田さんが、さんを陥れている。
そう考えると、これまで感じた不自然な点の説明がつく。
私がこうして気が付いたことに、仁王君が気付いていないわけがない。


 「貴方は知っていたのでしょう?
 原田さんが我々に嘘をついていたことも、その嘘がどんな事態を招いているかも…っ。
 貴方は充分過ぎるほどに解っていた筈だ…!」


仁王君は気だるげに首を傾けた。
小さく、ため息。
――何故、何故、


 「知っていたのなら、どうして――!」


さんに何の罪もないのなら、
彼女にあのような暴力を受ける謂われなどないのなら、
それらをすべて、知っていたのなら、


 「なぜ彼女を助けようとしないのです…!」
 「……柳生。お前さん、周りがまったく見えとらんぜよ」


いつの間にか、上がっていた仁王君の口角は元の位置よりやや下がっていた。
フラフラとしているようでいて、彼はひどく周囲に敏感で誰よりも状況をよく把握している。
今回もそうなのだろう。私には見えていないものが、彼には見えている。


 「そもそも、お前さんが思っとるような簡単な問題なら、参謀がとうに手を打っとる」


そうだ。あの柳君が真実に辿り着いていないことはもとより、その上で傍観に徹しているとは考えられない。
――何かがある?さんを助けることが、彼にとってマイナスになってしまう?

柳君がさんを嫌悪している筈がない。
それは、先日切原君と試合をしたさんを保健室へ連れて行った彼の様子からもわかる。
柳君は何かやむを得ない理由があって、さんを助けるに助けられない…?


 「お前さんがを庇うのは勝手じゃが、少しは参謀の断腸の思いも汲んでやったらどうじゃ」
 「断腸のと言われても…っ、女性を犠牲に一体何を手に入れるというんです!?」
 「…参謀の欲しいもんなんて、ひとつしかないじゃろ」


――いつも、こうだ。
仁王君は決して、正解は言わない。
けれど確実なヒントをぽつりぽつりと落としてゆく。

柳君は我々の中で誰よりも仲間を気にかけている。
そして、柳君や幸村君、真田君らの全国三連覇へかける思いは生半可なものではない。
加えて、関東大会の波乱だ。仲間想いという面でも、王者のひとりという面でも、
柳君は今回の全国大会には並々ならぬ想いを抱いているだろう。
ならば―――


 「…まさか…っ、さんのことを、全国大会に集中する為に先送りにしているとでも……!?」
 「…参謀は何も言わんがな」


我々はあまりにも、原田さんを信じすぎた。
今更真実を求めるのなら、心は無傷では済まない。
丸井君や切原君が、平然としたプレーを続けられるとは思えない。
万全の状態で全国大会へ臨むことを最優先とするなら、確かに柳君の判断は正しい。
けれど、―――けれど!


 「優秀なマネージャーを犠牲にして得た優勝旗に、一体どれほどの価値があるというんです…っ!
 彼女が居たから、我々はここまで来れたのではないのですか!?」


それは、彼女に限ったことではない。
我々は全員でここまで上り詰めてきた。
誰が欠けても、この結果は得られなかった筈だ。
それなのに、後回しなど…!
これは最早、さんや原田さんら個人の問題ではない。我々全員の問題だというのに。


 「…貴方や柳君には、それぞれ考えがあるんでしょう。貴方達は私を短慮と思うかもしれない。
 それでも、はっきりと申し上げます。――貴方達は間違っている…っ!」


仁王君は表情を崩さなかった。
僅かに息をついたようにも思えたけれど、私は彼の反応を待たずに踵を返した。
西日が眩しい。目頭が熱いのは、きっと眩しすぎるこの西日の所為だ。


 「――柳君!!」


部室を開けるなり叫んだ私の目に飛び込んできたのは、黄色いボールがぼたぼた落ちる様だった。
その中心に居るのは、――さんだ。


 「す、すみません…!驚かせてしまいましたか…」


恐らく、ボールの籠を棚に戻そうとしたのだろう。
私が大声を出したものだから、驚いて手元が狂ってしまったのかもしれない。
足元に転がってきたボールを拾うと、さんは慌てて私を制した。


 「いっ、いいから!」
 「え?」
 「拾わなくて、いいから…!」
 「しかし、」
 「蓮二ならもうみんなと帰ったよ。柳生も帰って…いいから。
 戸締まりもしておくし、私、ぜんぶ…やるから」


さんは散らばったボールを手早く集める。
私が手に持ったままの最後のひとつを、躊躇いがちに取った。
ボールを戻すと、彼女は私の様子をわずかに窺いながら今日のスコアをまとめ始めた。

走り込みのタイム、ウォーミングアップにかかった時間、サーブの平均速度…。
レギュラーひとりひとり、項目によっては部員全員の記録をまとめ、
学年やプレイスタイルごとに平均を出し、順位を出し……。
そして最後に、記録から導き出される今後の課題や克服の為の練習メニューをノートに書き込む。
いま彼女が手をつけているのはレギュラーの分の其れだけれど、
恐らくそれが終われば他の部員の分にも取り掛かるのだろう。

―― そうだ、彼女は我が部のマネージャーになった去年の冬からずっと、こうして我々を支えてきてくれていた。
誰よりも早く部室に来て練習の準備をし、誰よりも遅くまで部室に残って記録を整理し…。
自宅に帰ってからもこの作業は続いている筈だ。
ふと本棚に目をやれば、柳君のデータノートの隣に、さんがこの半年間書きためたノートが何冊もある。

我々は、もしかしたらとんでもないことを―――


 「すみません………っ!!」


気がつくと私は、膝をついて頭を下げていた。さんがぎょっとしたのがわかる。

我々は、この一件に関してさんの変貌ぶりに首を傾げていた。
けれど違う。彼女は何一つ変わってなどいなかった。
変わってしまったのは、我々の方だ。

この歪みは、正さねばならない。

短慮と罵られても構わない。
嗚咽を殺しながら、私は決意を固めた。