人違いだろうと思った。それでも、その人物から視線を外せない。
真夏だというのに彼女は長袖のシャツを着ていた。
買い物袋らしきものを下げて歩いていく彼女は、どこか虚ろな表情をしている。
彼女の姿を見るのは一週間ぶりだろうか。最後に見たときよりも、やせた気がする。
たかだか七日間。けれど彼女の印象は大分ちがう。
彼女は――原田さんは、私に気づくこともなく、いくつも建ち並んだ団地の棟のひとつに入って行った。
* * *
「――蓮二」
翌日の練習後、幸村君はカレンダーを眺めながら口を開いた。
柳君がノートから顔を上げる。
「うちの部員で、原田の家の近所に住んでいるのは誰だ?」
「…柳生の家からなら、徒歩十分ほどだったと思うが…どうかしたのか」
どうかしたのか、とは愚問だ。問うた本人もそう思っているらしい。
柳君は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
私は制服のネクタイとともに自分の気もきゅっと締め、静かにロッカーを閉めた。
「様子、見てきましょうか。…お見舞い、と言うべきかもしれませんが」
「あぁ、頼むよ。さすがに一週間も休まれると、そろそろあっちがもたないだろ。
原田が本当に寝込んでいるならともかく、そうでなかったら引きずり出してきてくれ」
幸村君の言う“あっち”とは、さんのことだろう。
ちらりと窓の外へ眼をやると、コート整備をしているさんの姿が見える。
この距離でも見てとれるほど、彼女は傷だらけだった。
痛々しいのはその傷だけではない。あんな表情をする人だっただろうか、彼女は。
テニスに関連したことならば、それがたとえどんな雑務であっても楽しそうに生き生きとこなしていなかったか。
あのときの彼女はどこに――そこまで考えたところで、絹糸のような思考がぷつんと切れた。
恐らく、我々が彼女を殺したのだ。
我々が、あのひたむきで明るくあった、という人間を殺め闇に沈めた。
沈んだ彼女の代わりに浮上してきた姿が“あれ”ならば、見ていて痛々しいのは道理だ。
柳君から渡された、原田さんの住所が書かれたメモ用紙を片手に嘆息すると、何かが肩に重くのしかかってきた。
幾分――というか、かなり脱色の行き過ぎた髪が横でゆれる。
うぐ、という私の短い呻きなどお構いなしに、仁王君はメモ用紙をじっと見つめる。
肩越しに彼を睨むと、プリッと一言残して彼は退いた。
「何です、仁王君」
「俺も行く」
「…あなたの家は逆方向でしょう。何を企んでいるんです」
「俺が後輩の見舞いに行っちゃいかんか。最近の柳生は疑り深いのー。ジェントルマンが聞いて呆れるぜよ」
「あなたのような人の相手を毎日させられていますからね」
仁王君は返事はせず、けらけらと笑うだけ。
ただ、笑みを収めた彼の表情はいつもの人を茶化してばかりのものとは異なっていて、
私はそれ以上は何も言わず彼と肩を並べた。
風もなく、今日はひどく蒸し暑い。
原田さんの家は、私の家から程近い団地であった。
やはり、昨日見た長袖のシャツを着た人は原田さんだったのだ。メモが示す棟は、昨日彼女が入って行った棟と同じだった。
棟の中は薄暗く、外の蒸し暑さも手伝って息が詰まるようだった。
足音がよく響く。これほど蒸し暑いのに、触れたコンクリートの壁はやけにひんやりとしていた。
メモが示したのは四階の西端。呼び鈴の上にある表札には確かに「原田」と書いてある。
鉄の扉が重たく見える所為か、その向こうに人の気配は感じられない。
仁王君は着くなり躊躇う様子もなく呼び鈴を押した。
一度目は何の反応もなく、四度目でようやく扉の向こうに人の気配がした。重たい音を立てて鉄の扉が開く。
――瞬間、私は不躾ではあるがほんの少し表情を歪めてしまった。
開いた扉の向こうから、熱気を含んだ空気の塊がどっと押し寄せてきた。
ひどい煙草の臭いというおまけつきだ。あまりに予想外で一瞬頭がくらりとした。
扉を開けて出てきたのは女性だった。
少々過度な化粧が施されているけれど、原田さんとどこか似ている。母親だろう。
彼女の左手の人差し指と中指の間には、火を付けたばかりと思われる煙草があった。
「……何か用?」
「――あっ、すみません。立海大付属中の柳生と申します。
麻紀さんには、いつもテニス部でお世話になっています。
あの、…麻紀さんの、お見舞いに伺いました。風邪だとうかがったものですから」
隣の仁王君は何も言わず、うっすらと眉間に皺を寄せてただどこかをじっと見つめていた。
女性は、テニス部、という単語にあからさまに顔をしかめた。
「ちょっと、あの子部活なんてしてるの?テニス部ですって?」
「え?えぇ……マネージャーとして…」
「何考えてるのよ……」
女性が、低く呟きながら髪をかきあげた。煙草の臭いと共に香水の匂いが鼻をつく。
原田さんは、テニス部のマネージャーをやっていることを御両親に隠していたんだろうか?
……いや、後輩の事情をあまり詮索するものではない。私の悪癖だ。
幸村君には、“もし寝込んでいるのでなければ引きずり出してきてこい”と言われている。
具合の如何だけでも訊く必要があった。相変わらず仁王君は何かを睨んでいる。
「具合の方はいかがですか?心配している部員も多く―――」
私の言葉を遮るように、奥の方からがちゃんと派手な音がした。
ほぼ同時に、ばしゃりと何か液体が床に叩き付けられるような音もした。
私が困惑していると、女性は舌打ちをして扉に手をかけた。
「いま取り込んでるから。わざわざどうも。…学校にはその内行かせるわ」
言いながら女性は扉を閉める。
結局、来たはいいけれど何にもならなかったな、と考えていると、扉が僅かな隙間を残して止まった。
――仁王君の手足が、閉まる扉の間に滑り込みあっという間に彼は元のように扉を開け放った。
「原田、寝込んでなんかおらんじゃろ。ついでに風邪でも何でもないんと違うか」
「なっ…によ、あんた。ちょっと、勝手に上がらないで!」
止める女性の腕を振り解いて、仁王君は土足のまま家の中へと入って行く。そのまま奥へと姿を消した。
女性の金切り声が、コンクリートの壁や天井に反響する。
私は一拍おいて、弾かれたように動き出した。靴を脱いで、彼を追う。
リビングへ足を踏み入れて、私は息を呑んだ。
リビングと対面式になったキッチン。その床には、やかんが転がっていた。
それを中心にお湯がまき散らされていて、微かな湯気を上げている。
その向こうで、――男が小さな少女を跪かせ、その髪を鷲掴みにしていた。
この光景には、見覚えがある。
そうだ、これは―――部員に痛めつけられるさんの姿と、ひどく似ている。
少女は虚ろな目で我々を見上げ、姿を認めると目を見開き、顔を歪ませた。
「にお…せんぱ――」
「――離せや」
掠れたその声が終わる前に、仁王君は低く静かに男に言った。
目の据わった男がそれに従う気配はなく、原田さんの髪を掴む手にぎりりと力を込める。
かと思うと、仁王君は鞄を私に押し付けるとキッチンへ踏み込み、男を突き飛ばした。
有無を言わせず原田さんを肩に背負いこちらへ舞い戻る。そのまま玄関へと走り抜けた。
男が何かを喚く。女の金切り声が響く。私は慌てて彼らを追った。
「いや、――いやっ、離してください…っ!帰して!!」
原田さんのそんな声もお構いなしに、仁王君は団地の階段を数段飛ばしながら駆け降りる。
それを追い階段を駆け降りながら、私は頭の中が急速に冷えていくのを感じた。
原田さんの身体にはいくつもの痛々しい傷があるという話だった。さんの手によるものだとも言われていた。
私はそれが腑に落ちなかった。さんの聡明さを知っていたから。けれど原田さんの傷は確かに在り、そして絶えない。
――真実は、これか。
あまりにも苦々しい。
近くの公園までくると、仁王君はベンチに原田さんを下ろした。
私はハンカチを濡らすと、彼女の左腕にそれをあてる。
お湯を被ったのであろうその腕は赤くなりじわりと熱を帯びていた。
「良かった、あまりひどい火傷ではないようですね」
「……熱湯というほどでは、ありませんでしたから」
「真新しい傷がありますね。この季節に長袖を着て外出をするのは、これを隠す為ですか?」
私の問いに、原田さんはただくちびるを噛んだ。
外出する予定がなかったからだろう。今は半袖のTシャツを着ている。痣も火傷も、むき出しだ。
以前まで、部活の間もTシャツを着ていた。そのときの腕はこれほどの痛々しさではなかったはずだ。
この一週間は、彼女にとってどんな時間であったのだろう。
「…この一週間は、何を?」
「……最初に休んだ日は、本当にただの熱でした。それからは、…家事とかを」
「いつから、…その、」
「――いつから虐待なんぞ受けとる」
歯に衣を着せない問いに、彼女がぎりっと歯を食いしばったように思えた。
顔をあげて、彼女は仁王君を睨む。見たことのない表情だった。
「虐待なんかじゃない……」
「あぁ?」
「あたしは、虐待されてるカワイソウな子供なんかじゃない…っ」
「…原田さん。私はあなたの家の事情を存じ上げません。
しかし、親が子供に手をあげるなど、間違いなく“あってはならないこと”です」
諭すようにやんわりと彼女の両肩に手を置くと、目をそらされた。
噛み締められたくちびるに、血が滲む。微かに震えているのがわかった。
お節介から人の事情を詮索し、首を突っ込むのは私の悪癖だ。それは自覚している。
私が善意でも、相手がそれを疎ましく思うこともある。
今回も、原田さんは助けて欲しいなどとは一言も言っていない。
それでも、彼女を放っておくことはできなかった。
「何が起きているのか知った以上、このままあなたを帰すわけにはいきません。
帰るのが怖いなら、私の家に来ても構いません。
あなたと同い年の妹も居ますから、我々に話せないのなら妹や母に話してもいい。とにかく――」
「放っておいてください」
真一文字に結んだ口を開いて、彼女は立ち上がった。
ハンカチを綺麗に畳んで、返される。
「ご迷惑をおかけしてすみませんでした。…学校には、ちゃんと行きますから。
今日のことは忘れてください。失礼します」
素早く礼をして、止める暇もなく彼女は裸足のまま駆け出した。
宣言通り、彼女は翌日の朝練からきちんと登校した。
ただ、ジャージは袖をまくりもせず上着をきっちり着ていた。
「おはようございます、柳生先輩」
「お…おはよう、ございます」
「昨日はわざわざありがとうございました。体調はもう万全ですのでご心配なく」
早口且つ棒読みでそう言うと、彼女は一足早くテニスコートへ歩いて行った。
彼女の言葉は、威圧するような空気を含んでいた。
部室で幸村君に礼を言われても、歯切れの悪い返事しかできない。けれどそれを訝しまれることはなかった。
その日は、あらゆる意味でいつも通りの部活動だった。
原田さんはいつものように終始笑顔で、さんは口をきゅっと結んだまま黙々と、それぞれの仕事をしていた。
その裏でさんが殴られる、蹴られる、水や砂、罵倒を浴びせられる――。
「…………―――」
――この奇妙な違和感は何だろう。
それは、真っ白な布にたった一滴垂らされた黒いインクのようなもの。
気付かなければ気にならない。けれど、一度気が付いてしまうとそればかりが目に入る。
そうしていくうちに、黒いインクはじわじわと広がっていく。
昨日見た、父親――らしき男――から暴力を受ける原田さんの姿は、さんとあまりに酷似していた。
原田さんは、理不尽な暴力を受ける痛みをその身を以て知っている。
…今更だけれど、原田さんはさんをどう見ているのだろう。
さんが原田さんを虐める。他の部員が原田さんを庇いさんに報復をする――。
原田さんにとってさんは、ただの加害者である嫌な先輩に過ぎないのだろうか?
自分に嫌がらせをするからと言って、複数の人間の暴力による報復という手段に出るほどの相手なのか。
痛みのわかる人間が、“やられたらやり返す”、そんな手段を?
…何かが、おかしい。
そうだ、私は―――私達は、ただの一度も、さんが誰かに手をあげているところなど見ていない。
ただ、原田さんに確かに痛めつけられた跡があったから、その話を信じた。
けれど、彼女の傷はただの最低の大人によるものだ。ならばこの話はどこからきた?そもそも誰がこんな話を―――。
切原君、だったろうか。確かあの日彼は追試で練習に遅刻し、そのときに、………原田さん本人、から?
「(…なぜ……?)」
――浮上する可能性。
血の気が引いた。
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