「――幸村君。原田さん、今日もお休みだそうですよ」
部室に来る途中、件のマネージャーと同じクラスの部員に言われたことを私はそのまま部長である彼に伝えた。
部室内の空気が僅かに、ぴり、と張り詰めた気がした。
幸村君はそれを気にする風でもなく、そう、とだけ返事をすると部室を出て行く。
部室裏で洗濯をしているもうひとりのマネージャーに伝えに行ったのかもしれない。
「休み、ねぇ……」
何かを考えるように、或いは示唆するように、仁王君が呟く。
既にユニフォームに着替え終えた彼は、椅子を傾けながら携帯電話を弄っている。
私はそれを聞き逃したふりをして、自分のロッカーを開けた。
ここの所、我がテニス部は異常だ。本来あるべき姿を見失ってしまった。
原因は何であるのか、一体何が我々の歯車を狂わせたのか。
それはもう、目を背け傍観に徹してしまった私の知り及ぶ所ではない。
それでも、中心に居るのが誰なのかくらいはわかっている。マネージャーの二人だ。
三年生のさんは勤勉な人だ。
昨年の冬は彼女の働きに随分と助けられたものだ。我々の恩人であるというのは少々大袈裟、だろうか。
一年生の原田さんも、さんと同じようにとても勤勉で、これまで部活を休んだことなどなかった。
けれどたった今、彼女の四日目の欠席の連絡がなされた。
風邪――と、彼女の欠席を伝えてくれた後輩は言っていた。この夏の盛りに珍しいと言えば珍しい。
夏バテ、ということも考えられるが、今私達を取り巻いている状況から、体調の他に何か理由があるのではないかと勘ぐってしまう。
「風邪っつか、トーコーキョヒじゃねーの?誰かさんの所為でよ」
くちゃり、ガムを噛む品の無い音とともに、そんな言葉が丸井君の口から零れた。
――僅かに、胸が軋む。丸井君はさんととても仲が良かったはずだ。
私はさんが男子テニス部のマネージャーになった経緯について詳しくは知らないけれど、何かがあったということは察しがついた。
柳君と丸井君は、その“何か”を理解している。だから彼らは、彼女の良き友人であり良き理解者なのだと、思っていた。
それが今はどうだろう。
今の彼らの間には暴力の二文字しかない。
彼は一体どんな気持ちで、彼女に手をあげているのか。
――憂鬱だ。
私がこれまで勤しんできた部活動は、テニスは、こんなものではなかったはずなのに。
着替えを終えラケットを片手に部室を出ると、また嫌な光景が視界の端に見えた。
何かが肩に重くのし掛かるような気分だ。
原田さんが部活――というか学校を休んで今日で四日目。
その原因がさんだと考える部員は多かった。さんからのいじめに耐えかねて、とうとう休んでしまったのだと。
それを責めて、彼らはいつにも増してさんに辛く当たっている。
部員からの仕打ちによるストレスを、さんは原田さんへぶつける。
部員が原田さんを庇い、またさんに暴力を振るう。…とんだ堂々巡りだ。
けれど引っ掛かる。さんはこの堂々巡りがわからないような頭の悪い人ではないはずだ。
――鈍い音と呻き声に、私は我に返った。
振り向くと、部員に囲まれたさんがうずくまっている。突き飛ばされて洗濯機に激突したのかもしれない。
部がいつ購入したのかも知れない旧い洗濯機は、彼女がぶつかった衝撃に揺れながらゴウンゴウンと派手な音を立てている。
胸騒ぎを呼ぶような、嵐にも似た音だった。
少し間をおいて、私は彼らの方へ向かった。その間が表す躊躇いに、自己嫌悪する。
「君達、もう練習が始まりますよ」
…私は随分前に、傍観に徹することを選んでしまった。
それでもこうして割って入るのは、私の良心の欠片なのかもしれない。
――けれど、
「そんな人は放っておいて、ウォーミングアップでも始めたまえ」
そう冷たく言い放つことで自分の身を守ることも、私は忘れていなかった。
自分はこれほど冷徹になれるのか、と、喉までせり上がってきたため息を呑み込む。
…彼女の味方になる勇気は、私にはなかった。
彼女を囲んでいた部員が散り散りになり、私は小さく息をついた。
さんは身体中についた砂を払いながらゆっくりと立ち上がる。
そして彼女は小さく、――ありがとうと、私に言った。
いじめに加担したくはない。だが、誰の味方になる勇気もない。
そうやってただ己の保身ばかりを考える私に、それでも彼女は礼を言う。
どう反応したらいいのかわからず、結局私は彼女を無視する形でテニスコートへと向かった。
それからさらに三日が経っても、原田さんが部活へ来ることはなかった。
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