約一年ぶりにプレーヤーとして立ったコートは、とても広かった。
途中から記憶が断片的だ。3−1まではちゃんと覚えている。
4ゲーム取られたあたりから何が何だかわからなくなって、
いつの間にか仁王がゲームを止めていて、気が付いたら蓮二が私を背負っていた。
粘度の増した唾液が喉に絡みついて、降ろして、と言うのも億劫だった。
肩から鈍い痛みが広がる。今にも腕が取れるんじゃないかというくらいだ。
保健室には誰も居なかった。蓮二は私を椅子に座らせると、顔を伏せて深く長いため息をついた。
「……どうして、優しくするの?」
蓮二は顔を上げない。
私はまだ落ち着き切っていない息を無理に抑えて、ごくりと気持ち悪い唾液を飲み込んだ。
「蓮二だって、私が辞めればいいって思ってるんでしょ?なら放っておけばいい、突き放せばいい」
こんなの違うってわかってるのに、期待してしまうから。もう彼には頼らないと決めたはずなのに。
テニスコートで私に駆け寄って来た蓮二は本気で心配そうな顔をしていて、
私は喉まで出かかった“助けて”を必死で呑み込んだ。
怖い。気を緩めると求めてしまいそうな自分が、怖い。
今だって蓮二は私と同じくらい苦しそうな表情をしている。
そんな顔、しないで。
「中途半端に優しくなんか、しないで……っ!!」
蓮二は顔を覆っていた手を離した。うっすら開いた眼はどこか虚ろだ。
俯いた私の頭に、蓮二の大きな手が置かれた。
力のこもった手なんかじゃないのに、抑えられているみたいに顔が上げられない。
それでも、撫でるような優しい手つきに、涙が出そうになる。
とてもあたたかな手をしているのに、彼の言葉はひどく鋭利だ。
「頼むから、マネージャーを辞めてくれ」
こんなにも残酷な優しさを、私は知らない。
私は蓮二の手を勢いよく払いのけた。
「悪いと思ってないわけじゃない。でも絶対に辞めたりなんかしたくない…っ。尻尾を巻いて逃げたりするのはいや!!」
「取り返しのつかないことになってからでは遅いんだぞ!今日だって無茶をして……っ」
「――蓮二はずるいよ!!」
荒げた声が室内に響く。開いた窓からは、放課後の騒がしさが流れ込んでくる。
でも、この空間だけを切り取ったように、私達の間にその楽しげな喧騒が入る余地はない。
「蓮二が何を考えてるかなんて知らないけど、口だけそんな風に言うなんてずるいよ…っ!
半端に優しくして、助けて、なのに“辞めろ”なんて言う…っ。
辞めて欲しいなら、他のみんなみたいにすればいいじゃない!!
ブン太や真田や、赤也みたいにすればいいのに……っ!」
痛むのは右肩か、左胸か。
蓮二は深く息を吐いた。ため息とは少し違う。――どうして何も言わないの?
油断をすれば泣いてしまいそうで、私はTシャツの裾のあたりをくしゃりと強く握った。
「…出て行って。もう、いいから。コートに戻って」
「だが……」
「出て行ってって言ってるの!!」
精一杯の拒絶を込めてその背中を押すと、蓮二は抵抗もせず保健室を出た。
扉の向こうに少しの間気配があったけれど、やがて遠ざかった。
それから、蓮二と入れ代わるようにして仁王がやって来た。
彼は友人としてはとてもいい奴だとは思うけれど、すぐに口説き文句のような言葉を並べるところはどうかと思う。
“俺ならお前を護ってやれる”――そう言われても、驚くほど私の心は傾かなかった。
護られることは、望んでいない。みんなとの仲が元通りになるわけではないから。
元通りになれるのなら何だってする。けれど、覆水盆に返らず。土台無理な話なのだ。
仁王は何か言いたげだったけれど、原田の登場でその言葉を呑み込んだ。
病院に行けという幸村のお達しらしい。原田は用件を伝えるとすぐに出て行き、仁王もそれに続いた。
ひとりになって、今更どっと疲れが津波のように押し寄せてくる。
――悔しかった。赤也に、まるで歯が立たなかった。
眼では、頭では、ボールをきちんと追えているのに。
あそこに行けば返せる、とわかっているのに、身体がついて行かない。
サーブだって、まさかあそこまで遅くなっているなんて思わなかった。
この一年で失ったものは、あまりに多い。
私はのろのろ着替えて、重い足取りで病院に向かった。
かかりつけの病院で看てもらったあと家に帰ったけれど、私は家の前で絶句しながら足を止めた。
家の前に、原田が居る。――いや違う、落ち着け、彼女はただの“客”だ。
商店街と住宅街の境目あたりにある、小さな花屋。それが私の家だ。今日もママはきびきび働いている。
原田はただ花を買いに来ただけ。無視して裏口から家に入ればいい。
早く行かなきゃ。店から原田が出て来たら気付かれる。余計な接触は避けたい。早く、行かなきゃ――。
「先輩……?」
どうして、足が動かないんだ。肩がどくどくする。
「あ。、おかえり」
私に気付いたママがにっこり笑う。私は引きつった顔で頷くことしかできなかった。
原田は、私と、今自分が出て来たばかりの店と、手にある花束とを順番に見つめて、目を見開いた。
「うそ……ここ…」
「…私の家。あれうちの母親」
「――っ……」
原田は顔を歪めると、買ったばかりの花束を地面に叩き付け、
まだ新品みたいにきれいなローファーでぐしゃりと踏みつけた。
まあ、なんて言いながらママが口をぱっくり開けている。
仕入れた花も勿論あるけれど、中にはママが丹精込めて育てた花もある。
「ちょっとあんたねえ!私のことが嫌いなのは勝手だけど、花は関係ないでしょ!?」
「うるさいっ!わたしっ……いつも、ここのお花、お姉ちゃんに……――最悪……っ!!」
もう一度花を踏みしめると、原田は身を翻して走り去って行った。
私は今日何度目かわからないため息をつきながら、無残な姿になってしまった花を拾い上げる。
ママが目をぱちくりさせながら店から出て来た。
「立海の子だなぁとは思ってたけど、知り合いだったの?」
「ん……うん、まあ」
「喧嘩?」
「だったらまだよかったんだけどね」
私は花を全部拾うと、さっさと中へ入った。花をごみ箱へ落とす。こんな最期は、あんまりだ。
鞄を部屋に置いて着替えて、私は一階の仏間に下りた。仏壇の写真の中で微笑むのはパパだ。
五年前に事故で亡くなった。雨の日に車でスリップして、歩行者を避けようとして脇の歩道橋に突っ込んだ。らしい。
パパが避けようとした歩行者は無事だったけれど、歩道橋の脇を歩いていた女の子がひとり、亡くなった。
ママと一緒に弔問に行ったっけ……ほとんど門前払いだったけど。
その女の子もテニスをしていたと思う。名前は確か、藤村さん。彼女も、全国を目指していたんだろうか。
私がテニスから離れられないのは、勿論魅入られているのもあるけれど、
パパが教えてくれたものだからというのもあるんだと思う。
それでも、私がテニスに関わることを疎ましく思う人がたくさんいる。
…彼女も、そうだろうか。テニスも未来も奪われた彼女は、やっぱりみんなと同じことを思うだろうか。
答えのないことを考えていると、夕飯を告げるママの声が聞こえた。
ママに尋ねると、原田が来たのは今日が初めてではないらしい。
月に一度は必ず来ているというのだから、今まで気が付かなかったなんて私も原田もお互いどうかしている。
「お姉さんにって言ってたかな。お見舞いかしらね」
「入院とか?」
「家族のお見舞いでお花って言ったらそうかもしれないけど、お客様にそこまで首は突っ込まないよ」
ママの話を聞き、姉なんて居たのかと思いながら、私はおかずをつっついた。
―― それから程なくして、蓮二の言う“取り返しのつかないこと”が起きてしまうなんてことを、私は知らない。
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