疑念は最初から在った。
まず全ての発端は、“が丸井のラケットを壊した”というところだ。だがそれは“有り得ない”。
が丸井の――いやこの際、丸井のものであるとか新品だとか丸井が苦労して手に入れただとか、それはどうでもいい情報だ。
“がラケットを壊す”、そんなことはまず“有り得ない”。
これは感情論などではない。データという客観的事実を繋ぎ合わせた結果導き出されるひとつの結論だ。
情が一パーセントも含まれていないと言えば嘘になるが、含まれていても五パーセントにも満たない微々たる割合だ。
あれほど、それこそ病的なまでにテニスを愛しているという人間が、
テニスを踏みにじるような真似――ラケットを壊すなどという行動を起こす筈がない。
ラケットを壊した犯人はだと告発したのは原田麻紀だ。
だが間違いなくそれは嘘だ。何故原田がそんな嘘を吐く必要がある?
――自らの罪を擦り付ける為、か?
彼女の恨みを買ったのはか、丸井か。その問いに対する答えは、もうひとつの疑念から導き出された。
赤也が言っていた。
『先輩、原田に暴力ふるってんすよ……っ。
原田、アザとか、火傷とか…すげえ痛々しくて、あいつすげえ怯えてて…っ!』―――。
火傷というのは、煙草を押し当てたもののようだとも、赤也は言っていた。
原田の痣や火傷は本物であるらしい。そして痣も火傷も原因は同一であると考えるのが自然だ。
そうなると、が喫煙をしていることになる。赤也の失望はそれも端を発しているのだろう。
だがそれもまたおかしな話だ。
の家は両親ともに愛煙家であった。
だが、が幼い頃にその副流煙が原因で急性気管支炎を起こし、それをきっかけに両親は煙草を辞めている。
以来は煙草に酷い嫌悪感を抱いている。幼いは、止まらない咳やままならない呼吸に命の危険さえ感じたことだろう。
そんな人間が煙草を吸うだろうか。――吸う筈がない。
原田はどうにか、を加害者に仕立て上げたいようだ。だが一体、何の為に?何の為に、原田はを陥れる?
二人はこの春に初めて知り合った間柄である筈だ。春から夏にかけての短い時間の中で何かあったというのは考えづらい。
――本人に訊くのが早い、か?
「――馬鹿な真似はするなよ、蓮二」
赤也から例の話を聞いた日。
練習が終わったあと部室に残ってデータの整理をしていると、突如頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、練習のあとすぐに運動部の部長会議へと呼び出された精市が居た。戻ってきたらしい。
「蓮二が何を考えているのか、当ててあげようか」
精市は制服に着替えながら、笑みを含めた声音で言う。
背中を向けられている所為で、表情はわからない。
俺は手を止めて椅子ごと精市の方を向いた。
「“がラケットを壊すなど有り得ない”、
“原田はを陥れようとしている”、
“何故そんなことをする必要が?”
――“本人に訊くのが早い”」
少なからず息を呑んだ俺に、精市は笑った。
最初に精市が言った、“馬鹿な真似”とは、原田本人に訊くという行為を指しているのだろう。
「……精市も気が付いていたのか」
「まあ一応ね、すぐに気が付いたわけじゃないけど」
「ならば何故だ」
「何が?」
ネクタイを結びながら、精市はやっと振り返った。そこには声音通りのうっすらとした笑みがある。
…この男と探り合いまがいの会話をすること自体が間違いだ。
「事態を放っておくつもりなのか。に手をあげている部員もいるほどだぞ」
「今のお前は冷静さを失っているな、蓮二。原田を糾弾すればどうなるか、よくシミュレートしてみるといい。
いいかい蓮二、俺達の目的は、あくまで全国三連覇だ」
どういうことだ?とふっと思案してみると、すぐに精市の言わんとしていることがわかった。
ほとんどの部員は、原田のことを信じている。
レギュラーでは弦一郎や丸井が顕著だ。赤也も今日の一件でそちら側となっただろう。
まだ戸惑っている部員も少なからず居るが、彼らが原田の側につくのも時間の問題だ。
加えて、クラスなどでも輪の中心に居ることが多いうちの部員だ。
事態が部という枠を越えるのもまた時間の問題だと言っていい。
にとっての敵が大半を占める中、原田を糾弾した場合どうなるか。
すべては原田の掌の上。それを知ったそのとき部員達が抱えるものは?
戸惑いや混乱、驚愕、手をあげてしまった後悔、信じたものが音を立てて崩れる、絶望感?
何にせよ、部員のメンタル面がひどく揺さぶられるのは目に見えている。
そんな状態で全国三連覇は可能か?――答えは否だ。
沈黙したままの俺を見て、精市は満足そうに笑んだ。
「わかったみたいだね。蓮二は頭が良くて助かるよ」
「………しかし、」
「俺達もも、どうせもうすぐ引退だ。何かするならその後にしてくれ。
――俺ももう帰るよ。鍵は頼んだよ、お疲れ」
精市の有無を言わせなさは相変わらずだ。
精市は鞄を背負うと真っ直ぐ部室の扉へと向かった。扉を開け、一歩踏み出そうとしたところで半身だけ振り返る。
半開きの扉から細い茜が差し込んで、部室の床と壁にぼやけたラインを引いていた。
「蓮二、俺はお前を信用しているよ」
「……ああ」
ぱたん、と扉は閉まり、部室内は静寂に包まれた。
無論、目的は全国制覇だ。それは譲れない。
ならば、どうするべきだ―――?
翌日、は裸足で教室に現れた。事態が部外へ及ぶのは思った以上に早かったようだ。
俺は一瞬息を呑んだ。声をかけるべきか、かけざるべきか――いや、かけるにしても、何と?
全国三連覇をどうしても譲れない俺が、手放しで彼女を救うことの出来ない、俺が。何と声をかけるつもりだ。
そうこうしているうちに、は教室を出て行ってしまった。
女子テニス部の部長が、が出て行った教室の入り口を恨めしそうに見つめている。
またお前達か――そう嘆息した直後、俺も最早他人のことをどうこう言える立場ではないと気付く。
傍観者も加害者。このままでは、の敵は増える一方だ。
しばしの思考の後、を追いかけようと立ち上がった時、本鈴が響いた。
――ホームルームが終わり、授業が始まってもは教室に戻って来なかった。
最初に出て行った時は、恐らく授業が始まるまで時間を潰すつもりだったのだろう。
時間を潰せる場所など校内では限られてくる。が行きそうな場所は屋上だろうか。
一時間目の授業が終わると、俺はノートも仕舞わずすぐに教室を出た。
屋上へ上がると、やはりはそこに居た。だがその姿を見て呆れて溜め息が出る。
朝のうち、屋上はまだ日陰が少ない。
は半身を陽にさらしたまま眠っていた。やはり寝苦しいのか、眉間には皺が寄っている。
「―――……」
呼び掛けても反応はない。俺は歩み寄ってその頬を軽く叩いた。
「、起きろ。――こんなところで寝ていると干からびるぞ」
はうっすらと眼を開けながら呻いた。
長く陽に当たっていた所為だろう、少し目眩がするようだ。うつろな眼で俺を見上げてくる。
「……暑い」
「もう一時間目は終わったぞ」
「そう。…じゃ、戻る」
壁に頼りながら立ち上がり、は俺の横をすり抜ける。
それを思わず呼び止めた俺の様子を、困惑の表情で窺ってきた。
――がテニス部に居る限り、この泥沼は続く。
泥沼から抜け出すには、元凶と思われる原田を糾弾するか、が部を去るか。
前者は、精市の言う通り部員達へ影響が出るだろう。全国大会を控えたこの時期に、それは避けたい。
ならば後者。しかしがそう簡単に退部をする筈がない。――そう、仕向けるしかあるまい。
泥沼が部外へも及んだ以上が退部をしてもすべての解決にはならないだろうが、
がテニス部にとって“部外者”となれば、俺が彼女を護ることも出来るかもしれない。
テニスを愛してやまないにとって、退部はこの上なく辛いだろう。
だが、どちらに転んでも辛いのならば、俺は半年前護ることが出来なかったお前の身を護りたい。
俺は静かに言葉を吐いた。
「マネージャーを、辞めるつもりはないのか」
「…それは、“辞めろ”って言ってるの?」
「そう、とってもらって構わない」
――あの時は、決して言うまいとした言葉。
「…………ごめん」
押し殺した声でそう言って、は屋上を立ち去った。
身勝手な俺を、呪えば良い。一人の友人よりも部全体を優先する俺を、憎めば良い。
俺は結局、お前を傷付ける形でしか、お前を護ることが出来ない。
――言いようもない吐き気がした。
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