「――
 「何、蓮二」
 「……日に日に怪我が増えていっているようだが」
 「男テニの参謀さんは、女テニのマネージャーのデータまで採ってるの?」
 「髪を切ったのか」
 「何よその早過ぎる話題の切り替え」


あれは去年の冬、精市が入院して間もない頃だ。あの時の俺は、これはデータではない、と言えなかった。
見ればわかることだ。冬だというのに短さを保ったままの制服のスカートから覗く膝の絆創膏がなくなることはなかったし、
頬の湿布はとれたかと思うと今度はガーゼになったりした。
見えない部分にも傷はたくさんあるのだろう。考えるとゾッとした。

何より、あいつは笑わなくなった。
力なく曖昧に笑みを漏らすことはあっても、以前のように明るい、
例えるなら背の高い大輪の向日葵のような笑みは見せなくなった。

昨日までは背中まであった長い髪を、ばっさり切ったらしい。
短くなった髪はの本来の明るい気性を表しているかのようだったが、表情にそれは表れていない。
その原因は、わかりきっていた。

女子テニス部――。
が不調を隠していて、試合を途中棄権し悲願の全国大会行きを逃したという話は聞いた。
確かにに非がある。マネージャーとして部に残ったに不満を抱く者も居て当然だ。

これは彼女らの所謂「制裁」なのだろう。
のあの性格では、いくら痛めつけたところで泣くような姿など見せはしない。
あの毅然とした態度が、テニス部を助長させ、「制裁」の域を過ぎるという結果を招いている。最早ただの幼稚ないじめだ。

俺は、ひたすらその仕打ちに耐えるの姿が見るに忍びなかった。
このままでは壊れる、と俺の頭の隅で警鐘が響いていた。

友人として俺に出来ることは何だ?
ただ救いの手を差し伸べただけでは、あいつはその手を払いのけるだろう。
どんなに助けを欲していても、表にはそれを出さずまたひとりで耐えるのだろう。

あれは、あいつの自尊心を傷付けずに済む道筋は何だろうかと考えていた折のことだった。



その日女子テニス部のコートは、年に数回の大掛かりな整備の為使用できず、男子テニス部と同じコートで練習していた。
そういう事情はお互い様であるし、女子テニス部の様子を見ておくのもいいかもしれないと思っていた。
女子テニス部はここ数年で確実に力をつけていて、確かにの件がなければ全国へも進めただろう。
……練習中の私語が少し多いのは女子故か。それには関しては部外者が口を出すところではないが。

だが聞き捨てならないのはその内容だ。俺は耳を疑った。
休憩中なのだろう、その部員たちはドリンクを片手にフェンスに寄りかかって楽しそうに談笑していた。


 「――でさ、そしたらあいつ髪切ってきたでしょ?もーあたし笑っちゃってさ」
 「落ち込んでる感じがまた面白いんだよねー。いつもは何やっても涼しい顔しちゃって」
 「そーそー、可愛げないんだよ。泣いて謝ればまだこっちだってねぇ」
 「ほんとイライラする。部の質下げんなって感じ。早く辞めないかな」
 「さすがにそろそろ辞めんじゃない?」
 「髪の毛焼かれりゃねー。最初あたしもびびったけど、のあの顔とか面白かったし」


――甲高い笑い声に、腸が煮えくり返るのを感じた。
そうだ、数日前、は長かった髪を短く切ってきた。それが何故かなど、深く考えてみたわけがない。
気分だとか、鬱陶しくなっただとか、そういう何の変哲もない理由だと思っていた。

それが、焼かれた?


 「――お前達」
 「うわっ、びっくりした、柳くんか。何?」
 「今の話を確認したい。が髪を短くしたのは、お前達に焼かれたからか」
 「……焼いたっていうか、ちょっと焦がしたくらいだよ」
 「そーだよ、だって火傷とかしたわけじゃないし」
 「同じことだ。……俺は、同じスポーツに携わる者として、心底お前達を軽蔑する」
 「――っ………」


吐き捨てて踵を返すと、がしゃん、とボトルを地面に叩き付ける音と、女子特有のキンとした声が飛んできた。


 「男テニに何がわかるっていうのよ!!」


振り返ると、ひとりが顔を真っ赤にして両目に涙をためていた。
無論、彼女らも悔しい思いをしたのだろう。試合に出た二年生はだけだと聞いた。
試合に出ていない分、彼女らの悔しさは行き場が無い。
行き場を失くした悔しさが、への苛立ちへと形を変え、そして発散する方法は暴力となる。

そう、元を辿ればこの件は、どう考えてもに非があるのだ。


 「こっちは、全国制覇した男テニに比べて女テニは、って言われ続けてきたんだよ!?
  だから今年こそはってあんなに練習してきたのに、それをあいつが――」
 「被害者ぶるのもいい加減にしろ」


だがだからといって、暴力に訴えひとりの人間を集団で痛めつける行為を正当化するなど、許されるはずがない。


 「…部の質を下げているのは誰なのか、自分達の胸に手をあててよく考えてみたらどうだ」


それ以降、彼女の口から何か言葉が出ることはなかった。
俺は今度は振り返るまいとして歩を進め、校舎へ向かった。は職員室へ行ったはずだ。

――何故もっと早く行動できなかった。
俺は、一体何を思って二の足を踏んでいた?
の自尊心、違う、こうなってはそれはただの言い訳だ。
優先すべきは自尊心などではない、案ずるべきは唯一つその身であったはずなのに。


 「まったく……お前のデータは採れる気がしない」
 「え?」


どんな目に遭っているのか、それは俺の想像を超えていた。
表情の変化は乏しくなったとはいえ、弱々しい姿など決して見せはしなかった。
だから俺は、軽い程度にしか想像していなかった。

廊下でばったりと会ったはただ目を丸くしているだけで、やはり毎日の暴力に耐えているようには見えない。
の手には、顧問から受け取ったのだろう記録用紙と新品のテニスボールがある。
あれほどの目に遭いながら尚、部に尽くすというのか。
いくら何でも、の身が保つわけがない。辛くないわけがない。

何が何でも、彼女をあの集団から引き離さねばならない。


 「、頼みがある」
 「う、うん、何?」


女子テニス部を辞めてくれないか――そう言いかけて開いた口を、俺は寸でのところで閉じた。
“部を辞めろ”という言葉は、が最も恐れている言葉だ。
そんな台詞は、苦痛の中幾度となく言われてきたことだろう。
その言葉を発する者の心中がどうあれ、が傷付くのは間違いない。

無言になった俺を、は困惑した表情で見上げていた。
俺は半ば自棄になりながら、の肩を掴んだ。


 「男子テニス部の、マネージャーになってくれないか」
 「はっ?」
 「精市が入院したのはお前も知っているだろう。それで弦一郎が気負ってしまっていてな。
  加えて弦一郎のあの性格だ、俺達を頼ろうともしない」
 「でも男テニってマネージャーはいらないって主義じゃ……」
 「それは部を乱すような浮ついた女子はいらんという意味だ。
  だがお前が優秀なマネージャーであることは弦一郎も承知しているし、この非常事態だ。
  お前は精市や弦一郎、他の何人かの部員とも面識があるし問題ない筈だ。――頼む」
 「いやでも私女テニだし……」
 「無理を言っているのは承知だ。だが他に頼める心当たりもいない。……頼む、この通りだ」


これを逃せば機会はない。そう思った俺はとにかく頭を下げた。
は勿論戸惑っていたのだが、やがて曖昧に頷いた。


 「ええと……か、考えておく…」
 「ああ。前向きに考えてくれ。…引き止めて悪かったな。俺は練習に戻る」
 「うん……」


ではな、と引き返そうとして、俺は自然ともう一度振り返った。


 「そうだ、
 「ん?」
 「短い髪も、よく似合っている」


は一瞬目を丸くしたけれど、やがて少しぎこちなく笑った。小さく、ありがとう、と聞こえた。


結局、マネージャーの件は俺の粘り勝ちだった。
精市は渋るどころかすぐに許可したし、弦一郎も最初はあまり気が進まないようだったが、
幸村が許可したのならば仕方あるまい、と頷いた。
二人の許可を得てから、我ながらしつこいな、と思いながらもそれから数日間勧誘を続けた結果、はついに首を縦に振ったのだ。

そうして、は男子テニス部に入り今に至る。
が部を移って間もない頃は、周囲の人間によく言われた。
彼女を助ける為にこうしたのではないか――それを肯定すれば話がこじれることも、が気を悪くするだろうこともわかっていた。

だから俺はあの時、部の為だとしきりに周囲に言った。
けれど、ほんとうは。これ以上、彼女を見ていられなかった。

これで良かったのだと、思っていた。
は暴力を受けなくなったし、また元のように笑い、明るさを取り戻した。もうすべて解決したのだと。

だがあれから半年。
はまた、理不尽な暴力の渦中にある。

友人として俺に出来ることは、何だ?