「――良し、休憩!」
幸村のその声を合図に、コート内の空気が張り詰めたものから少し和やかなものへと変わった。
部員達は深く息を吐く者も居れば、もう無理だと言わんばかりにその場に座り込む者も居る。
私はドリンクのボトルが沢山入ったカゴを両手にぶら下げてコートへ走った。
その途中、幸村がすれ違いざまに無言で、まるでスリのようにボトルをカゴからひとつ抜き取って行って、
この男は本当に相変わらずだなと思った。
幸村にはまだ、信頼はされていると思う。
尤もその信頼は、人間としての信頼というよりはマネージャーとしてのものだけれど。
彼はきっと、マネージャーの私しか必要としていない。
でも、仕事さえきちんとしていれば良いのだから、気が楽と言えば楽だ。
――そう、他の部員の面倒臭さに比べれば大分ありがたい。
部員達が私に抱いている嫌悪感を拭うのは難しい。
でもだからといって、意固地になって私からドリンクを受け取ろうとしないのは頂けない。
この夏場の練習中、水分不足と熱中症には気をつけなくちゃいけない。
仕方ないので、受け取ろうとしない部員の足元に点々とボトルを置いていく。
柳生やジャッカルは、いい顔こそしないけれどドリンクはしっかりとお礼を言いながら受け取る。これは親の教育の賜物だと思う。
――問題はこいつらだ、と赤也とブン太にボトルを差し出しながら私は少なからず身構えた。
ラケットの一件と、原田のどこで作ってきたんだか知れない青痣の件。
あれ以来、この二人は私にとてつもない嫌悪を抱いているのだと思う。
最初こそ、憮然とした態度での無視や極々軽い暴力だったけれど、宥める人間が居ない所為でエスカレートしていく。
赤也は私からボトルを受け取ると、フタを飲み口ごと外した。
「最近いつにも増してあちーっスよねー。こまめに水分をとれって柳先輩も言うんスよ」
「…そうだね」
「先輩も汗だくじゃないスか。俺のドリンクあげますよ」
「い……いらない」
「まーそう言わずに」
赤也はそう言いながら、――ボトルの中身を私の頭からぶちまけた。
ばしゃっ、と冷たいドリンクが頭から足元へと駆け抜ける。
あたりは文字通り水を打ったように静かになって、たまらず誰かが吹き出した声を皮切りに、大きな笑い声が響く。
「赤也ぁ、いーぃコトすんじゃん。、俺のもやるよ」
ひとしきり笑ったあと、ブン太も茫然とする私の頭の上でボトルを逆さにする。
笑い声とセミの鳴き声ばかりが強く頭の中で鳴り響いていたけれど、二度目の水音で私は我に返った。
ボトルが入っていたカゴを掴んでコートを出て行こうとする私に、面白がった部員達から次々とフタの開いたボトルが飛んでくる。
痛いやら冷たいやら腹が立つやらでたまらず振り返った私は、地面を見て息を呑んだ。
こぼれたドリンクで緑色の人工芝の色が濃くなっている。
普段から雨ざらしになっているから、ただの水なら問題ない。でもこれはスポーツドリンクだ。
――ふざけるな。
「こ…っ―――」
「何をしている!!」
コートを汚すな!!――そう言おうとして開いた口は、真田の怒鳴り声で言葉を呑み込んでしまった。
コートに駆け込んできた真田の目に映るのは、散乱したボトルとずぶ濡れの私、
そして、私から尾を引くように濡れて汚れたコート。
真田は私に歩み寄るなり、ぱしんっと私の頬を叩いた。
いつもよりは幾分手加減のされた平手だけれど、じんわりと痛みと熱さが広がっていく。
「あ…んた、よくこの状況で私を叩く気になれるね」
「、今がどういう時期かわかっているのか」
「全国前の大事な時期だって言いたいんでしょう」
「そうだ。…こんな時期に、部内を乱すな」
……呆れた。彼は本当に、真正面しか見えていない。
この状況で悪いのは私なのか。まったく集団の力というのは恐ろしい。
「…誰の所為なんだか……」
私は額に張り付いた前髪をよけながらコートを出た。重苦しい空気が背中にのしかかってくる。
強い日差しで身体は少しずつ乾き始めている。べたべたする前に洗い流そうと、私は水道へ急いだ。
水道で水を頭から被りながらぼんやり考える。
あの頃と、同じようなものだと。
私は結局、自分で自分の首をぎりりと絞めているのかもしれない。
あの頃――去年の冬、マフラーや手袋が手放せなくなってきたくらいの時期だ。
私は、たいていのことには耐える覚悟も、自信もあった。
女テニの部員…特に同学年の人達から、いくらボールをぶつけられようが古びたラケットを投げつけられようが、
殴られようが蹴られようが、くそ寒いのに頭から水をぶっかけられようが、とにかく私は耐えてきたんだ。
私が悪い。責任を取りきれないことをしてしまったし、その上もうテニスが出来ないくせに女テニに残ったんだ。
私には選手としての価値しかなかったのに、その価値が無くなってからも私は部にしがみついていた。
みんなが煩わしいと思うのも当然だ。
暴力も暴言も、つらい。
でも私は、自分でも呆れるくらいのテニス馬鹿だった。
……テニス部にいられるだけで、良かったんだ。どんな目に遭っても、あの場に居られるだけで良かった。
暴力を受ける辛さと、テニスのない生活を送る辛さ。そのふたつを天秤にかけて、高く掲げられたのは暴力の方だった。
だから私は耐え続けていた。――でもやっぱり、私は身勝手だった。
『限界』。
その二文字が頭の中で点滅していた。
鼻をつく何かが焦げたにおい。……“何か”?――私の髪だ。
背中まで長く伸ばした自分の髪を、私は気に入っていた。
部活の前に後ろできゅっとひとつに束ねると気合いが入る感じがしたし、
特に手入れらしいことはしていなかったけど我ながらさらさらしていて好きだった。それが。
練習終わりの部室。後輩達はもう全員帰っていた。
後片付けをしていた私を捕らえ、彼女らはライターを取り出した。
みんなの声が、今もまだ耳に残ってる。
――超びびってんじゃん!
――あんた見てると本当にイライラする。
――何これおもしろーい。
――いっつも涼しいカオしてるけど、さすがにこれは怖いよねぇ?
――ねえ、ほんといい加減、
部からいなくなってよ。
それまで、泣くのは自分自身が許さなかった。
泣くのは悲劇のヒロインぶるようで気持ちが悪いと思ったから、絶対に泣きたくなかった。
でもとうとう、両目から透明な粒がいくつもいくつも零れ落ちた。顔を歪めると、頬の擦り傷が痛かった。
行き過ぎ――頭に浮かんでは消える逃げ道。
みんなが私を悪く思うのや、多少の暴力も暴言も、私が蒔いた種だと思って耐えてきた。
これくらいの罰で此処に留まることが出来るのなら、と。でもこれはもう、私の咎の域を超えているんじゃないだろうか。
………ちがう、だめだ。そんな逃げ道を作ってどうするっていうんだ。
喩えそうだとしても、テニスから離れられないのは変わらない。どの道耐えるしかないんだ。
大丈夫、春になって新入生が入ってきて、またオンシーズンになれば忙しくなる。
私にこんなことをしている暇はなくなるだろう。きっと、大丈夫。
私はどこか病的にテニスに固執し続けた。
この冬を終えれば大丈夫。そう思っていた矢先。
蓮二が私を、男子テニス部へと誘った。その誘いは突然だった。
当時男テニは幸村が入院したばかりで、
真田が幸村の分までしっかり部を纏めようとして気張り過ぎているのだと蓮二は言っていた。
真田は言ってしまえば空回りしてしまっていたようで、部内が却ってピリピリしてしまっているし、
ずっと気を張っている真田自身もストレスが溜まっているだろうからサポートをしてくれないか、と。
蓮二は私のマネージャーとしての腕を認めてくれていて、
真田も、快くという感じではなかったけれど、蓮二に説得されてか同じようにマネージャーを任されてくれないかと言ってくれた。
――救われる、と思ってしまった。
蓮二の誘いに乗れば、私は暴力から解放される。
それでいて、テニスにも関わり続けていられる。彼の誘いは、あまりに甘美だった。
でも良いの?
自分の勝手で女テニに残って、みんなを散々不快にさせて、
それで辛くなったからって、逃げ道があるからって、それに縋るの?
……でも、みんなは私が女子テニス部を辞めることを望んでる。
蓮二は私にマネージャーを頼んでくれている。私はテニスに関わっていたい。もう辛いのはいや……!
――ならこれは、みんなが望む道なんじゃないだろうか。
私は結局、数々の言い訳を並べに並べて、女子テニス部を去った。
これは逃げじゃない。私は辛いから投げ出すんじゃない。必要とされているから行くんだ。彼女らに負けたわけじゃない――!
……勿論、嫌味はこれでもかと浴びせられた。
元々、二年のときのクラスは女子テニス部の部員が多かった。
その部員達がクラスでも目立つグループだったから、私はクラスでもひどく居心地の悪い思いをしていたものだ。
人付き合いがあまり上手じゃなくて、同じクラスや部活にしか友人の居なかった私にそれはけっこう堪えた。
部を移ってからもクラスでの居心地の悪さはあまり変わらなかったけれど、
毎日傷だらけだった私の姿や、部員と私との間の空気はやはりただならぬものがあったらしく、
蓮二やブン太、仁王あたりは察してくれたらしい。あまり私がひとりきりにならないよう気を遣ってくれた。
そのおかげか、暴力も嫌がらせも時と共に薄れ、やがて時間は穏やかに流れるようになった。
一度離れた友人達との仲が修復することは結局なかったけれど、穏やかな時間は何物にも代え難かった。
春にマネージャーの後輩も出来て、地区大会や関東大会も勿論勝ち進んで、次は全国大会で、幸村も無事退院して―――。
充実した日々が続いて、このまま全国大会が終わって、引退するんだと思っていた。
もうあんな辛い日常は終わったんだと、思っていた。だから私は、自分がどれだけ身勝手だったか忘れてしまっていた。
――そしてまた、これだ。
女に殴られるのと、 男に殴られるのとでは当たり前だけど大違いだ。
水道をきゅっと締めて、叩かれた頬に手をあてる。まだ少し熱かった。
…駆け付けたのが真田じゃなくて蓮二だったなら、赤也をきちんと宥めて叱ってくれただろうか、なんて考えてしまう。
蓮二はあのとき、私を助けただなんて思っていないだろう。
彼もテニスのことばかり考えている人だから、部活の為に私を引き抜いたまでだ。
でも私は確かに蓮二に救われた。だから私は無意識のうちに彼に信頼や甘えを寄せているのかもしれない。
「(馬鹿だ……)」
蓮二が一番最初に私に言った。部は辞めないのか、と。
その言葉に失望する私は、なんて馬鹿な甘ったれ。
ぱんっ、と両頬を軽く叩いて気合いを入れた。
――私は、蓮二の言葉を聞いてから、ひとつ決めたことがある。
もう自分を甘やかしたりしない。駆け込む逃げ道も、並べる言い訳も、今度は有りはしないんだ。
原田が何故私を陥れようとしているのかはわからない。でも、謂われのないことで暴力を受けるつもりはない。
――耐えてみせる。
辞めて、たまるか。
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