最低とか、許せないとか、そうは言っても、
中にはまだあの人を、先輩を心のどこかで信じていた奴は多かったと思う。

あの人がテニス部のマネージャーになったのは去年の冬。
幸村部長が欠け、負担の増えた真田副部長をサポートする形で入ってきた。
あとから聞いた話、同じクラスだった柳先輩が頼んだらしい。
でもあの人は女テニのシングルスプレイヤーだった。
柳先輩とどれだけ仲が良かったのかは知らないが、
女テニの選手を辞めてまで男テニのマネになったことが、俺は不可解でならなかった。

でも、初めて男テニにやって来たときの先輩は、
挨拶のときも、仕事の合間も、にこりともしなかった。
きっと何か事情があるんだろうなと俺はぼんやり思っていた。

でも、時間が経つにつれ先輩はだんだん笑うようになった。
解氷したな、と柳先輩が言っていた気がする。
打ち解けた先輩は気さくでいい人で、仕事もよくできたから頼れる人だった。
あの人と恋愛したいと思う部員もちらほらいたんだと思う。
でも俺のはきっとそういう感情じゃなかった。俺はただ、あの人に憧れた。

真田副部長や柳先輩と並んでも、纏った雰囲気は決して負けていなかった。
背筋はいつもしゃんとして、凛としたその姿は、何ていうか、そう、高嶺の花って感じ。
だから俺は、あの人に近付きたいとは思っても、近しくなりたいとはあまり思っていなかった。

あの人も先輩として俺を可愛がってくれた。
実際、あの人が男テニに来てから半年くらいしか経っていないけど、
俺達は確かなものを積み上げてきたと思う。みんな、先輩を信頼していた。

だから、先輩が丸井先輩を裏切ったことが信じられなくて、それと同時に怒りが湧いた。



あの一件から、先輩は変わってしまった。
前みたいに笑わなくなったし、よく重々しいため息をつくようになった。
丸井先輩のラケットを壊した犯人は自分だとバラした腹いせなのか、マネの仕事も原田に押し付けてるって聞いた。
言われてみれば、コートを颯爽と駆け回る先輩を見なくなった。代わりに、以前より原田をよく見かける。

先輩は他人に厳しい人だったけど、自分にはもっと厳しい人だった。
そんなあの人が仕事を人に押し付けてサボるなんて。
俺達は、信じがたいあの人の変貌ぶりを、首を傾げながら受け入れるしかなかった。

本当は、真田副部長は今すぐにでも先輩を退部にしたいんだと思う。
でも、部長や副部長、顧問にだってそんな権限があるとは校則にはない。
暴力事件とか、飲酒喫煙とか、そういうことに対して学校側の処分のひとつとしてあるだけだ。
それに、新米の原田には、まだひとりでマネージャーを勤めるのは無理だ。
でも俺達に影響は出ていないから、何だかんだであの人も多少の仕事はしているんだろう。


俺はまだ、あの人への信頼を捨て切れていない。
過ごした時間こそ長いとは言えないけど、そう簡単に揺らぐほど柔な絆なんかじゃないと俺は思っているから。
全部根も葉もない噂なんじゃないか。…そうだったら良いのに、なんて思ってる。

だって俺達は、先輩の姿を見ていないだけで、
サボる先輩の姿も、原田に仕事を押し付ける先輩の姿も、自分達の目で見てなんかいないから。

だから、俺はまだ少しだけ期待していた。



ある日俺は、英語の追試の所為で部活に遅刻した。
追試が終わってから走って部活に向かうと、コートにいる副部長から怒鳴り声が飛んできた。
追試になるとは何事だ!とか何とか。
俺はとにかく急いで着替えてコートに行こうと、部室のドアを勢い良く開けた。――が。


 「っ!?」
 「うわっ!?」


そこには先客がいて、部員にしては小さくて華奢過ぎる奴が着替えていた。――やべっ、原田だ!


 「わりぃっ!!」


開けたときよりも数段上の勢いでドアを閉めると、俺は間抜けに立ち尽くした。
いや、見てない。こんなの見たうちに入らない。
だいたいあいつキャミ着てたし。下はもうジャージだったし。
………でも、キャミから覗く背中や腕にあったのは。

やかましい蝉の鳴き声とぎらぎらの直射日光に包まれながら、俺は原田が出てくるのを待った。
暑さからくるものとは違う、嫌な汗が背中を滑り落ちた。

すぐにドアが開いて、申し訳なさそうに原田が顔を出した。
脱いだ制服を丁寧に畳みながら、原田は俯いたまま言った。


 「すみません……部員の皆さんはもうみんなコートに出てると思ってたので、つい横着しちゃって………」


元々、部室はマネージャーが居る想定で作られてはいない。
だから女子である先輩や原田は、校舎の更衣室まで行って着替えなきゃならない。
他人事だけど、面倒だと思う。


 「いや、追試で遅れてきた俺が悪かった。驚かしてわりぃな」
 「いえっ、平気です」


俺の笑顔はかなりぎこちなかったと思う。
でもこれは、一瞬とはいえ着替えを見てしまった申し訳なさとか、気恥ずかしさとか、そんなもんじゃない。
Tシャツから伸びる原田の白い腕には、不似合いな青痣があった。


 「…原田、あのさ」
 「はい」
 「その………。……腕、のその痣、どうしたんだ?」


そう尋ねた途端、原田の顔が引きつった。
大きく目を見開いたあと、わざとらしく目をそらされた。


 「な、なんでもないですよ。ちょっとぶつけただけです」
 「……じゃ、背中は?」


さっき一瞬見えた背中にも、同じような痣があった。
原田は一瞬固まったけど、制服や荷物を纏める手の速さがぐんと増した。


 「すみません、もう練習も始まっちゃってるので」
 「待っ―――」


荷物を部室の奥に置いて、原田は俺の横をすり抜けて外へ出ようとした。
その肩を掴むと、少しだけ震えていた。


 「……悪い!」


俺は一言詫びると、原田が聞き返す間も与えずTシャツの背中をめくりあげた。
俺の中には、信じたくない可能性が広がるばかり。

原田の背中には、少しTシャツをめくっただけでわかるほど、――たくさんの青痣があった。
これはもう、ちょっとぶつけたなんていうレベルじゃない。
青痣に紛れて、煙草か何かを押し当てたような小さな火傷もたくさんあった。


 「原田っ、これ……!」


驚いて放心してしまったが、原田に呼びかけて我に返った。
原田は顔中耳まで真っ赤にして、小さな身体をぎゅっと縮こまらせて震えていた。
今にも、泣き出しそうな顔で。
俺は慌ててTシャツを元に戻した。


 「悪い……」


ぐすり、鼻をすする音がした。何してんだ俺は。
でもこれは、間違いなく“誰か”にやられたものだ。――じゃあ、誰が?


 「…誰、にやられたんだ?」


そう問い掛けた俺を、原田は肩を力一杯押して遠ざけた。
…俺はもう、これは誰がやったのかわかっているのかもしれない。


 「いっ……言えません…っ!」


腕を掴まれて逃げられない原田は、首を横に振って拒否を示す。怯えている。そんな感じがした。
嘘だ。きっとこんなの、俺の思い違いに決まってる。原田は原田できっと何か別の事情があるんだ。
それを助けられるかどうかはこれとはまた別の話なわけだけど。
とにかく、これはきっと勘違いだから臆せずに尋ねればいい。


 「先輩、に……やられた、のか?」


なんで声が震えるんだよ。
こんなの嘘に決まってるのに、なんで恐る恐るなんだよ。
尋ねれられた原田はというと、一瞬はっとした表情をしたあと、
――俯いて、小さく、肯いた。

信じたくない。
でもそれなら、この痛々しい傷は?


 「ちくしょう………っ」


俺は着替えに部室に来たはずなのに、それも忘れて制服のまま部室を飛び出した。



先輩は、コート横の水飲み場でドリンクを作っているところだった。
その姿を見つけて、俺は走った勢いそのままに先輩に突っ込んだ。
砂埃を上げて俺達はコンクリートの上に倒れる。先輩の上に乗っかった俺は、その襟を掴んだ。


 「――アンタ、一体どうしちまったんだよ……っ!!」


先輩は顔をしかめて俺を見上げた。きっとどこか擦りむいたんだろう。
俺が襟を掴んでいる所為で少し苦しいのかもしれない。


 「アンタあんなことする人じゃなかったろ!?原田がアンタに何したってんだよ!?」
 「っ、私が原田に何したっていうのよ!?訊きたいのはこっちの方よ!!」
 「アンタがやったんだろ!?――なんでっ、なんで……っ!」


知らないうちに俺の目からはみっともないほどの量の涙がぼろぼろぼろぼろ落ちていて、先輩の頬に跡を残していた。
哀しいとか悔しいとか、色々混ざって自分でもよくわからない。


 「――赤也」


静かな声がして、誰かに襟を引っ張られた。――柳先輩だ。
柳先輩は俺を先輩から引き剥がすと、俺のぐしゃぐしゃの顔にタオルを押し当てた。


 「何があった、?」
 「こっちが訊きたい……」
 「…擦りむいてるな。傷を洗って保健室にでも行って来い」


先輩が居なくなるのを待って、俺は顔からタオルを下ろした。
柳先輩が呆れ顔でこっちを見ている。


 「何があった?」


先輩に言ったときより幾分声の調子を弱めて尋ねられた。
でも、俺の頭はこの気持ちを言葉に出来るほど優秀じゃない。
言葉にしようとすればするほど、涙と嗚咽しか出て来なかった。


俺は、心のどこかで先輩をまだ信じていたんだ。
全部根も葉もない噂なんじゃないかって。信じて、いたのに。


信じていた人に裏切られることが、
こんなに哀しくて、こんなに悔しくて、こんなに腹の立つことだったなんて、俺は知らなかった。