『――似合うじゃん、ブン太!』
そう言って笑ったあいつは、何だったんだろう。
未だに信じられない自分と、絶対に許せない自分がいる。
でも、丸井先輩のラケットを壊したのは先輩なんですと、
涙ながらに言った原田も、とても信じられないという顔をしていた。
あのラケットはスポーツショップで一目惚れしたやつで、
でもなかなか値が張るやつで、しかも在庫限りな上残り少ないと店員が言っていた。
俺はまだ、あのラケットを握った感触が忘れられない。
最早運命の出逢いと言っても、俺にとっては大袈裟じゃなかった。
あのラケットで試合が出来たら、きっと誰にも負けやしない。そんな気さえした。
それくらい、最初の瞬間から俺の手に馴染んだ。
あのラケットは俺の為にあるから絶対に手に入るという妙な確信があったが、早く手に入れたくてたまらなかった。
だから、決死の覚悟で買い食いを我慢したり、親に頼み込んだり、
毎週必ず買っていた雑誌を立ち読みで済ませたり、ジャッカルにたかったり。
俺はあらゆる手を使って金をかき集め、ようやくそいつを手に入れた。
金を持ってスポーツショップへ向かうときのあの気持ち。
やっと、やっとだ。ようやく手に入る。まだ残ってるかな。
ああ早くあれで試合したい。どんなやつが相手だって俺の天才的妙技でガンガン攻めて勝ってやるぜ。
きっと釣りくらいは出るから帰りにガムを大量に買って行こう。
棚にぶら下がる紅いラケットが、俺には輝いて見えた。思わずガッツポーズが出た。
そこから先はある種神聖な儀式めいていて、心を落ち着かせてゆっくりと棚に歩み寄り、
改めてその感触を確かめるようにラケットを手に取る。吸い付くような、その感触。
――あー、これだよこれ!
次の日、俺は上機嫌で部活に行った。
終始笑顔の俺を見て、最初に例のラケットが手に入ったのだと気が付いたのはだった。
はまるで自分のことのように喜んでいて、
俺は普段は落ち着いているあいつが時折見せる、顔をくしゃっとさせる笑顔が好きだった。
良いなあ私もあんなラケットで試合したい、と絶好調で練習をする俺を眺めながらはそう漏らしたのだという。
――もう、はテニスが出来ないのに。
俺は赤也や仁王に気持ち悪がられるほどに上機嫌かつ絶好調で練習をしていたのだが、
そんな気分はあっけなく、そしてあまりにも早く終わってしまった。
少し目を離した隙に、ラケットが消えた。
方々捜しても見つからず、その日は予備のラケットで練習をした。
でも集中なんか出来るわけがなかった。
翌日の朝練のとき、ようやくラケットが見つかった。
俺達が練習している間、部室の掃除をしようとした原田が掃除ロッカーの中から見つけたらしい。
でももうそれは、俺のお気に入りのラケットじゃなかった。
あらゆるところがボロボロで、グリップを握ってもざらざらしていて、以前の吸い付くような感触は死んでいた。
俺は何が何だかわからなくて、確かその日の放課後の練習には出なかったと思う。
ブン太はかなりへこんでいるから、とジャッカルやが言ってくれたおかげか、
真田も幸村君も、明日はちゃんと来いよ、と言うだけだった。
俺と同じくらい落ち込んだ顔をするジャッカルとに苦笑しながら、俺は足取り重く家に帰った。
行き着けのスポーツショップにはまだ同じラケットが並んでいたけれど、とてももう一度買う気にはなれなかった。
次の日は流石に朝練には行けなかったが、何とか気を取り直して放課後には部室に行った。
あのラケットじゃなくたって、俺の天才的なテニスセンスは変わらねえ。そう言い聞かせて。
特にはすげえ心配してくれたから、元気な顔を見せて礼を言わなきゃいけない。
でも部室に着いた途端、俺はこれは笑顔でいる雰囲気じゃないと察した。
全員、揃ってる。ただ、だけがいない。
ミーティングでもしてたのかと思ったが、なら俺にも連絡は来る筈だし、が居ないのはおかしい。
それに、――原田は思いつめた表情で大きな両目に涙を溜めていた。
俺の姿を見て、ぽろり、ひと粒零れた。
「ま……丸井、せんぱ………」
「な、何だよぃ。折角気ぃ取り直して来たんだぜ?こんな重い空気で迎えなくたって……」
「…ブン太」
「何だよジャッカル?」
呼び掛けて促しても、ジャッカルは言いづらそうに何かもごもご聞き取れない言葉を発している。
柳生が、我々もとても信じられないのですが、と口を開いたとき、その横の仁王がさらりと言った。
「原田が言うには、犯人はだそうじゃ」
「……………あ?」
思考がストップした。頭ん中が真っ白になる。
数秒固まった俺の前に原田が出てきて、搾り出すような声で俺に追い討ちをかけた。
「丸井先輩のラケットを壊したのは、先輩なんです……っ!
わたし、先輩がラケットを壊してるところ見ちゃって…。
先輩には口止めされたんですけど、やっぱり黙ってるなんて出来なくって……!」
俯いて嗚咽を漏らす原田の頭を撫でていたのは誰だったっけ。
確か柳生かジャッカルかそのへんだ。
すぐ目の前の光景すら曖昧なほど俺は動揺していた。
が壊した?
俺がどんなにあのラケットを欲しがっていたか、は知っていた。
俺が色々なものを我慢して金を貯めていたことを、は知っていた。
俺があのラケットを手に入れたときにどれだけ喜んだか、は知っていた。
なのに、が壊した?
「……うそだろ?」
「でも……っ」
原田の瞳から、ぽろりぽろりと涙の粒が落ちていく。
次々落ちていく涙が、俺に現実の認識を迫る。
「……先輩も、丸井先輩と一緒になって喜んでたっスよね。
昨日だって、丸井先輩のことすげえ心配して………」
ああちくしょう赤也め。傷を抉るな。
俺はまだ事態を百パーセント呑み込めたわけじゃないんだ。
頼むから俺の速度で現実に向かわせてくれ、お願いだそれ以上喋るな。
だって俺はが、
「先輩がやったんなら、あの人最低っスよ。
丸井先輩がどんだけ落ち込むかわかってたんでしょ?
そんで落ち込む丸井先輩を慰めながら、内心笑ってたんでしょ?」
「随分と羨ましがってたしのう」
「ラケットがっスか?」
「ラケットがっちゅうか、心底楽しそうにテニスをする姿そのものじゃろ」
好き勝手なことをあっちこっちで喋るなよ。
ちゃんと俺なりに整理させてくれ混乱してんだから。
俺が音をたてて鞄を置くと、部室の中がしんと静まり返った。それきり誰も何も喋らない。
ぐるぐる、ぐるぐると考えを巡らせていたようで、実は俺の頭の中は真っ白なままだったのかもしれない。
やがて部室の扉が軽快に開かれて、が現れた。
――瞬間、事実を聞かされてからかなりの時差を経て、俺の腸が煮えくり返った。
カッとなった俺は、思わずラケットをに投げつけてしまった。
、俺は―――
「ざっけんな……っ!!」
それ以上の言葉は出なくて、俺はを突き飛ばして部室を飛び出した。
――、俺は、ラケットを壊したのがもしお前じゃなかったら、
きっとこんなにぐちゃぐちゃな気持ちにはならなかった。
凄く信頼していて、凄く好きだったお前に裏切られたから、俺はこんなにも腹が立つんだ。
俺の知らない“”があそこに立っているような気がしてならなかった。
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