――どうしてこんなことになってしまったのだろう。

私はそう思いながら、ぎりっと奥歯を噛み締めた。
じゃりっという砂を噛む音と鉄の味がする。視界がぐらぐらする。吐き気がする。
それでも弱っている姿を見られるのが癪で、私は気力だけで表情を引き締めて、鬼かという形相の男を見上げる。
地面に倒れた私には、ただでさえ立派な体格のその男がとんでもない巨人に見えた。


 「……何だ、その眼は」


男――真田は、気持ち悪いものでも見るような顔で私を見下ろす。
私はかろうじて半身を起こすと、殴られた頬に手を当てながら真田を睨んだ。
ずくずく痛んで喋りにくい。


 「…殴られていい顔なんか出来るわけないでしょ」
 「お前は反省という言葉を知らんのか?」
 「……そう言うあんたは女を殴ってどうとも思わないの?」
 「貴様っ……!」


がっ、と真田が地面を蹴った。顔を蹴られるのかと思ったが、流石にそこまで恐ろしいことはされなかった。
けれど真田の足が巻き上げた砂が私の目や口に直撃して、私は思わず顔を背けた。
目を擦りたい衝動を抑えながら、まばたきをして涙で砂を追い出そうとする。唾液とともに砂を吐く。
次に私が顔を上げたとき、真田の大きな手がぬっと迫ってきて、私の襟首を掴んだ。
無理矢理引っ張られて、倒れた身体ごと左を向かされる。その先には、練習続行中のテニスコート。
素振りや球拾いをする一年、試合形式の練習をする二年、二年に良くも悪くも口を出しながら自分達も試合をする三年。
そして、彼らの間を縫うように駆け回り、タオルやドリンクを配るマネージャー―― 一年、原田麻紀。


 「……見ろ」


真田が言っているのはその原田のことだとすぐにわかった。


 「貴様が遊んでいる間、原田はしっかりと仕事をこなしている。
  一年の原田がだ!貴様は一体何をしている!」


耳が壊れると思うほど大きな声で叫ばれる。
ああまったく、何をやっているんだ。私もこいつもあいつらも。

私は力を振り絞って真田の手を振りほどくと、全身にぐっと力を込めて立ち上がり、
何か言いたげに私を睨む真田を無視して部室へ向かった。



練習中の部室には誰も居ない。
私は冷蔵庫にあった保冷剤をタオルで巻いて、頬にあてる。
鏡に映った自分を見て、思わず苦笑した。予想以上に腫れていて、ひどい顔だ。
とりあえず湿布でも貼っておこうと救急箱をがさごそやっていると、
空になったドリンクのボトルをたくさん抱えた原田が部室に入ってきた。
――すべての元凶は、他ならぬこの女だ。

原田は私の腫れた頬を見て、ぷっと小さく吹き出した。


 「見てました、さっき。凄いですね、副部長。まさか女の人をグーで殴っちゃうなんて」
 「…あんたにはさぞ面白い光景だったんだろうね」
 「はい。這いつくばってる先輩ってとってもおかしかったです」


先輩っていつも態度が大きいから、と嫌味をかましながら、原田はボトルの群れを私に差し出してきた。
私は湿布を貼りながら、答えは察しがついているけれど一応訪ねてみる。


 「何の真似よ」
 「後片付け、お願いしますね?」


にっこり笑って、けれど私がボトルを受け取る気配がないので、原田はそれを机に置いて部室を出て行った。
その背中を睨んだあと、私は大きなため息をついてボトルを持って洗い場へ向かった。



春にマネージャーとしてテニス部に入部してきた一年生は女の子が三人。
けれど、そのうちの二人は仕事の厳しさに耐えかねてひと月もしないうちに辞めてしまった。
そして唯一残ったのが彼女――原田だった。
なかなか骨のある奴だと思っていたけれど、彼女にはちょっと骨が有りすぎたようだ。


練習が終わって、更衣室でひとり私はため息をついた。
春に買ってもらって、大事に大事に使っていた携帯電話が傷だらけになってしまった。
真田に殴られたとき私の手を離れ宙へ投げ出された携帯は、
がしゃんと電池パックを吐き出しながら地面を転がったのだ。
またも私は原田にしてやられた。
持ち物を盗まれるくらいは有り得るかもしれないと思っていたが、
まさか真田の鉄拳のおまけ付きとは思わなんだ。


練習が始まった直後、私の携帯が行方不明になった。
制服やジャージのポケットにも、鞄にも、部室にもない。
やられた、と思った私はとりあえずドリンクとタオルだけ用意すると、
仕事の片手間に携帯を捜し始めた。何せ無いと困る。

走り込みのタイムを計り終えたあと、ふと部室に戻る途中にある水飲み場に私の携帯が置いてあった。
駆け寄って様子を見ても、壊されている様子はないし、お気に入りのストラップも無事だ。
ただ、メールの受信を知らせているのか、時折ぴかぴかと光っていた。
何だろう、とつい携帯を開いてしまった。…それが良くなかった。
いつもなら必要なときを除いて、絶対に練習中に携帯なんていじらないのに。

メールボックスを開くと、不可解なことに原田からメールがきていた。
時間は練習が始まる直前になっている。
けれど、そこには本文はなかった。件名も本文も空白。

首を傾げながら携帯を見つめていたところを、真田に見つかった。
今思うと、真田がその私を見つけるよう原田が仕掛けたのかもしれない。
真田にしてみれば、練習中に携帯をいじる私はさぞ怠惰なマネージャーに見えたことだろう。
彼は私のところへすっ飛んで来て、その鉄拳をお見舞いした。

何が原田はしっかりと仕事をこなしている、だ。
あのタオルもドリンクも、私が用意したんだ。配るだけなら誰にだって出来る。
原田はまだドリンクの粉と水の比率もわかって居ないというのに。


 「(とんでもない女……)」


着替えを終えて更衣室を出ると、ブン太と仲睦まじく談笑する原田が見えた。
ここまでくるともう感嘆の念を抱かざるを得ない。
ブン太もブン太で気楽な奴だ。無知って幸せ。



あれは先週の頭のことだ。
原田は、ブン太のラケットをぶっ壊した。
――それが、始まりだった。

そのラケットは人気があるブランドのもので、ブン太自身も苦労して手に入れたものだった。


 『――見ろよ!やっと手に入ったんだぜ!』


天才的な俺にピッタリだろぃ?なんて言いながら、ブン太はラケットをくるっと回して見せた。
私自身もテニスをしていた身だから、その嬉しさはよくわかった。
形も色も自分好みで、且つ初めて握った瞬間から手にしっくりくるラケットなんてそうそうない。
嬉しそうににこにこしながら練習するブン太は、見ていてこっちも嬉しくなるくらいだった。

でも、原田はそれをぶっ壊したんだ。


ガットをカッターでズタズタにした。
フレームも傷だらけにした。
グリップも泥だらけにした。
極めつけに、そんなボロボロのラケットは部室の掃除用具の入ったロッカーに突っ込まれていた。


誰もが言葉を失った。何て言葉をかけて良いかわからなかった。
結局その日ブン太は練習に出ずに帰り、みんな終始無言のままその日の練習を終えた。

誰が、どうして。
ブン太は絵に描いたような「憎めない奴」だったから、それは誰にもわからなかった。

私が、帰り道に仁王や赤也と笑ってバイバイしたのは、その日が最後だ。
次の日部室に行ったら、何かが変わっていた。



いつものように放課後部室の扉を開けた。
でもその場の空気はいつもの賑やかなものではなくて、しんと静まり返っていた。
混乱する私にみんなの視線が突き刺さる。
私は何かただならぬ雰囲気を察したけれど、ただ扉の前に突っ立っていることしか出来なかった。


 「……な、なに…?―――っ!?」


戸惑う私に、ラケットが飛んできた。
鞄で防御はしたけれど、僅かに当たった指先が痛くて熱い。
飛んできたラケットは、昨日発見されたブン太の新しいラケット。
勿論、ボロボロの。投げたのはブン太だ。


 「ちょっ…と、何すんのよ、ブン太」
 「っ、こっちのセリフだっつの……――ざっけんな…っ!!」


ブン太は少し泣きながら、私を突き飛ばして部室を出て行った。私は訳がわからず彼を見送る。
他の部員も、ブン太に続いて部室を出て行く。
立ち尽くす私を突き飛ばして行く人、睨み付けて行く人、舌打ちをして行く人。
みんな出て行って、最後に残ったのは幸村だった。
私は出て行ったみんながいるテニスコートと、椅子に座っている幸村とを交互に見る。
幸村は相変わらずの穏やかながらも感情の見えない表情で立ち上がり、静かに部室を出ようとした。
その直前、私の横で立ち止まる。


 「――羨ましかったの?」
 「……え………?」


私は、震えた間抜けな声でそう聞き返すのがやっとだった。
答えられない私に、幸村は心底どうでも良さそうな声で、
まあどうだっていいけどね、と呟いてテニスコートへ向かって行った。


 「なん…なの……?」
 「――先輩」


扉の陰に、いつもと変わらない微笑みを浮かべた原田が居た。
誰もいないと思って滑り出た独り言を聞かれてしまって、何だか決まりが悪い。


 「……ねえ、何?何があったの…?」
 「昨日見つかった、丸井先輩のラケットがあるでしょう?あれを壊した犯人がわかったんです」
 「え!?誰よ!?」


原田は笑って、人差し指を私に向けた。


 「――あなたですよ」


……………え?


 「あなたがやったって、みんな思ってます。丸井先輩、怒っていたでしょう?」
 「な、なんで……っ」
 「わたしがそう言ったんです」


原田はそう言いながら、半開きだった扉を大きく開け放った。
コートがよく見える。原田は半歩だけ、扉から外に出た。


 「本当はわたしがやったんです。でも、先輩の所為にしました」
 「なんでそんなことすんのよ!?」


私の所為にされたとか、最早そんなことじゃない。
どうしてブン太のラケットを壊したんだ。
彼がどれだけ苦労してあれを手に入れたか。どれだけ喜んでいたか。
それは彼女もわかっていた筈だ。なのにどうしてそれを踏みにじるような真似をするんだ。


 「今すぐブン太に謝ってよ!あいつがどれだけショックだったか…っ!」


私はとにかく腹が立って、原田の肩を掴んで揺さぶった。
原田は顔をしかめながらも、――少しだけ、笑った。

私は動揺していて、気が付いていなかったんだ。
ここからコートがよく見えるってことは、コートからもここがよく見えるんだ。


 「――!何をしている!」


真田の怒号で、はっと我に返った。
原田は真田が走って来たのを見て、安堵したような、助けを求めるような表情を見せた。
嘘だ。一瞬前まで笑っていたのに。

私はさっき部室を出て行くみんなの様子を思い出して、色々なことを認識した。
みんなが原田の嘘を信じていること。
みんなが私への不信感を募らせ始めていること。
そして、原田の肩と襟を掴む私は、――暴力を振るおうとしているように見えること。

だから、彼女は扉を開け放ったんだ。
だから、彼女は半歩外へ出たんだ。

コートにいるみんなから、よく見えるように。

私を、加害者にするために。



――あれから一週間。私に味方は誰一人として居なくなった。
根も葉もない噂はどこから来たのだろう。私の知らないところで、事はどんどんどこかへと運ばれていく。

真田に殴られた頬の痛みが、彼の私への信頼はとうに崩れ去ったのだと語っていた。